相次ぐ地震
地震が相次いでいる。房総沖の深いところで地震が起きて以来、たて続いて起きる地震。東京のいたるところで原因不明の硫黄臭がするという話しもあり、地殻が動きだしていることは確かだろう。地殻の変動は冥王星という星の管轄だが、これが大地を表す山羊座にきている。しばらくまだこの冥王星の配置は続く。以前にブログでも書いたように、山羊座とは、上半身がヤギで、下半身が魚の姿をしている。海から上がってくるヤギ、、、という意味だ。これは新たな大陸に上陸するヤギであり、古い大陸が没し、新たな大陸が現れる、、、という神話的世界に由来している。今後10年以内にそういう地球規模の出来事が起きても何も不思議ではないとも言える。また最近の木星と金星における変化を考えると、太陽系に動きが出てきているとも思える。地球もそうした影響を受けるのは当然であり、太陽系の仲間なのだから。9月13日形成される土星と天王星の衝は、戦争のアスペクトとは誰もが言うが、それ以外に大地の変化とも深く関係する。日本の場合、このアスペクト図は天頂と天底とで形成されるので、大地が揺れることはかなり確実と言える。今年はやはり大地の揺れには注意が必要。こうした状況をすでに研究機関は本当は知っているだろうから、悪用されないことを祈るばかり。緊張が高まっているところに何らかの刺激を与えれば簡単に地震など起こせるだろう。ついでにインフルエンザの恐怖を宣伝することで、選挙の結果に介入することも可能。とにかくだましの時代なのだから、だましを見抜く必要がある。あと、二週間。何事もなく無事に選挙を迎えてもらいたいものだ。しかし、この期間に何が起こるかで、かえって世の中の実態が垣間見える、、ということもあるだろう。現政権としては、官僚、検察、司法もそろって、転覆は困るはずだから、体制維持をどうしても図りたい、、、となれば、なんでもありということになるやもしれない。はじめから国民のことなんかどうでもいいのだから、いざとなったら何でもやる。とにかく浮動票を動かしたくない、、、投票率を低く抑えたくてしかたない。そのための策の実行にはこれから気をつけてみておかなくては。時代は、知性と人情の戦いとなっている。自然な人情があれば戦争は起こせない。しかし、これまでの時代はそれをうまく利用され、正しくない情報によって敵や怒りの矛先をつくられ、戦争や争いやあらゆる競争が生じた。私たちをある方向に持っていこうとするスローガン的なやり方は、すべて上にのも好都合であり、国民はそのために、最終的には塗炭の苦しみを受けることになる。知の行きつく先は泥棒であり、最終的には狂喜に至る。森田正馬は、夜中に患者を診るより楽したほうがいいと考えたら、泥棒をするのが一番いい、、、となっていく、、、と、正しく知の行方を語ったことがある。さらに知は狂喜に至るのである。主知主義とは、頭のよい人間が悪い人間を支配するのは当然という考えから来ている。人間の特性は一重に知にあるので、この優秀性こそが人間の価値の重大性を決定するという、実はかなりおばかさんな発想なのだ。そうした考えの背景には、必ず復讐心がある。ルサンチマンと知とは密接である。どうしても出世できず、偉い人の運転手さんで一生を送った人がいたとする。その中で、普通の人のよい運転手さんもいただろうが、一方で、自分の立場を受け入れることができず、複雑な復讐心を持つ人もいたと思う。自分は常にぺこぺこしながらドアを開ける運転手であることに対する、復讐心、、、。その人はおそらく子供に勉強を強要するだろう。子供は親に言われるまま、勉強を続けるだろうが、優秀になればなるだけ、その根底には社会に対する復讐心を内在させていく。そうやってきた者が出世し、自分が今度は人を操れる立場に立った時、どういう目で下の人間を見つめることになるか、、、。このような冷たい知性が支配し続けたのがいまの世界なのだ。だから世界は病んでいる。しかし知には自壊装置が隠されている。知が全能であると勘違いすることになるためだ。厳密に言うと、本当の知はすべてを知ることができるのだから、それは全能と言えなくもない、そうした構造を持っている。しかし、思考の構造と現実には違いがある。全知の思考にとらえられるとそのことがわからなくなる。全能でないのに全能だと勘違いすることで、事実とのかい離が生じてくる。その結果として、知は最終的に狂喜に至ることになる。ファウストごときが自分のことを全知などというのだから、主知主義者の錯覚は大きい。サブプライムもつぶれるわけなのだ。もちろんさらにそうした破たんを計画したゴールドマンなどの主知主義者もいるのだが、何度やっても最終結果は同じになるのではないか。どこかで全人類を強制収容所化する以外に生き残る道はなくなると思う。そうなると最後の最後は、知と情の争いにならざるを得ない。はたして全人類を強制収容所の押し込めることなど可能だろうか。やはりそれは無理なのだ。手のうちが読まれることで、知は時代を作る力を失ってしまう。すでにその過程に入りつつあるのではないだろうか。大企業よりも私は町工場にその可能性を見る。町工場がきっとただのエネルギーを簡単に作ってくれる。医療機構よりももっとずっと健康に寄与する健康法や治療法が政府や病院とはことなるところから出てくる。エネルギーがただになると、戦争して何かを奪いあう意味がなくなる。戦争や飢えや恐怖は、大衆の富を略奪して一部の者の懐にねじ込むために存在したのだ。エネルギーがただになると富の意味がなくなる。変化する。大企業は富を上位者の懐にねじ込むための組織であるので、それらとは違う、小さな町工場や良心的な個人の医者が人類に素晴らしいプレゼントをしてくれることになっていく。こちら側が曇りなき眼で世界を見つめていれば、多くの小さな、権威のない研究者や街工場や医者から、数えきれないようなプレゼントが降ってくる。そしていつしか、なんら戦う必要もなしに、収奪や恐怖やイデオロギーや人をしばる宗教や戦争から自由になっていく。しかし頭が良い人間が悪い人間を支配してもいい、、、などという稚拙な考えだったから、100年にもわたって人類のためになる発明や発見を隠す必要があったのだ。無理を通すのだから、人類に技術革新を与えたら絶対にまずかったのである。素晴らしい発明に燃え、これで人類に貢献できたと思った矢先に殺されたり、投獄されたり、社会的に抹殺されてきた幾多の天才たちの英霊があったことか。それらの英霊の力の結集が、大企業などに行くわけがなく、名もない町工場の、名もない隠れた名医のところに、行くにきまっている。技術革新を今度は私たちがゲットできる番になっている。上の構造が完成し固まることで、花が咲いたまま枯れる運命をもたらす。その光景を私たちはもしかしたら生きている間に見られるかもしれない。