二羽の鳥
二羽の鳥が夕空の雲に見えたので、カメラをとってきた。鳥の尾の部分が虹色に光ってまるで鳳凰のように見えたのだけど、カメラを取りに行く間にずいぶん変化して、虹色も消えてなんだかのんきな魚に見えますね。
2匹の魚と言えばうお座のシンボル。それは同時に原始キリスト教会のシンボルでもある。この2000年の間はプラトン年でいううお座の時代であったが、本当にそうだったと思う。あらゆる事実は隠され、かわりに夢と幻想が人間に与えられた。あらゆる悪事は美名のもとに隠され、人類を何十回、何百回にわたって誘導した。幻想による誘導は幽界とこの世の関係に行きつく。人間は幻想主導の生き方の中でいつしか幽界を力づけ、幽界とリンクしながら多くのものを肥大させてきた。そこから作られたものが幻想として崩壊していくことは道理となった。魂は希薄化し、リアルに生きた時代の人間の魂の何十分の一、何百分の一という軽さに至ることで、大量死を受け入れる余地を作ってきた。この傾向はさらに進んでいる。愚民化以上に魂の希薄化こそが、幻想をあやつって支配しようとするものたちの最大の戦略となっている。そして最終の段階で現れたものがネットでもある。ここを幽界のアパートと成すことで最終的な逃げ道を作れる。ドンパチ行う戦争などのやり方は現実支配の古いやりかたとしてこれからもあるだろうし、麻薬や覚せい剤をはじめとして、体裁をよくした同様の各種薬剤、慢性病の薬など、ケミカル支配ももちろん続くのだろうが、ネットという最後の逃げ道、ご和算の方法を持つに至ったというのが、現状ではないか。ネットに有力な情報開示性の期待を抱き新時代の到来を予感する人は多いと思うが、本当にそうだろうか。むしろ巧妙な幻想体系の仕上げとしての役割の方がまだ大きいと感じる。一度なんらかのネット崩壊があり、その後に自然発生する形が現れるまでそれは待つことになると思う。今は個々がそれぞれの場所でそれぞれの立場で作るリアルの時代であり、そして個々がリアルを持つに至ったのちのネットワークこそが、次の時代の形になっていく。書を捨て街に出よう、、、という本が昔あったが、寺山修二だったっけ。パソコンかじりつきではどんなに良いことを考え、語っても、すでに幽界通しという質を取られているのと同じであり、期待せずに注意深く進めていく、、、という姿勢か。一羽の鳥に賭けてはダメ。鳥は常に二羽で飛ぶのがよいと思う。