日食以降さっそく地震
日食と地震はこれまでにも深い因果関係にあった。日食後にはだいたい地震が起きている。今回もそうだったが、これでもう大丈夫とは言えない。いたずらに心配してもしょうがないが、備えの必要はある。もう少し上がちゃんと対応をしてくれればいいのだが、地震予測に関しても、政府や大学が絡んだようなところにはあまり期待できず、かえってアマチュアの地震予測のほうが説得力や真実味があるというのがこれからだろう。上はどうしても、国民を助けようというより先に、問題を起こしたくない、、、という姿勢が優先されるので、わかっていることでもあえて言わないという心配がある。ただいまは政権交代時代なので、裏情報がかえって出やすい下地はある。あえて混乱を起こしたいと思うわけだ。どちらにせよ国民は馬鹿にされている。へびが道に何匹も出てきているとか、そういう情報がけっきょくは役にたつ。雲も同様。これだけ科学技術は発展したのに、それが国民のところまで降りてこない。最新兵器をみれば、それがどんなにすごい性能かがよくわかると思うが、一般の人間を幸福にするためにはそうした発明や発見は絶対と言ってよいほど使われない。とくに人間を自由にさせる技術は確実に阻止される。本当なら、もうほとんど病気などしない方法も、生活の仕方も、わかっているはずである。しかしそうなると医療経済にうまみがなくなる。医療経済を支える根本の考えは、人を活かさず殺さずに延命だけは続けるという形。私の家の犬はおととい死んだが、原因はよくわからない。二度の手術をしたことがあって立ち直ったのだが、今度は食べなくなったのが自分の意思のように感じて、かえって延命治療はしなかった。するとおとなしくつらそうなのは呼吸だけで、そのままおとなしく死んでいった。人間もきっと同じなのだと思う。痛いとか苦しいとかいう状況でなければ、何もしなくてもいいのではないか、、、という考えはあって当然だ。ほとんどの人が病院で死ぬ現実は異様である。それも大体は苦しんで死ぬケース。そんなばかながことがあるはずがない。あきらかにおかしい。みな自分の時で考えればそう思うのではないか。医者ががんにかかると、抗がん治療はやめてくださいという、、、おかしな話である。もっとも効率よく医療経済が、というよりも医療支配者がもうかる構図になっていってしまっているのだろう。医者も看護師もその中にとらえられてしまっているだけで、昔のように特に医者がもうかるわけでもない。さらに上の機構を維持する者が莫大にもうかるシステムになりさがっているのではないか。医療に限らず、すべての場所でそういう構造が支配している。だから世の中がつまらなくなっている。世の中に色気がなくなっている。生きている人間の芸術化が阻止されてしまっている。われわれの安全信仰をうまく使われてしまった。人間はどこかで一度でもいいから、命知らずになって自分の本当にやりたい道に進もうとしなければ、もう自分の人生を生きられないようにシステム化されてしまうのだ。私が苦労しながらも比較的自由なことをやってこれたのは、青年期のやけくそな命知らずの生き方しか、自分には与えられておらず、そうやっていく以外、なかったからだろう。社会のシステムを信じなかったこと、システムのレ―ルに乗ってさえいれば、必ずよくなるとは信じなかったことだが、そんなに立派な理由があったのではない。失恋してもう自分は普通の人のような幸福な未来を信じることなどできなかっただけなのだ。しかし今思えば、それが自分にはよかった。失恋の痛みの方が、出世よりも大企業よりも東大の価値よりも上にあったというだけなのだ。だから、この薄気味悪くすら思える現代奴隷制度から抜け出す方法も同様ではないか。立派な理屈などでは決して抜け出せない。もっと本能的で、自分を捨てる覚悟での叫び、あいつだけは許せない、、、この社長のいる会社で同じ空気は吸いたくない、、、自分の子供をこんなにひどく扱う者たちとはかかわりたくない、、、満員電車が許せない、、、とか言う、エリートにとってはほとんど問題ともならない感情が後押しする形でのヤケの決断に命をかけられた時だけが、私たちを救うことにつながるのではないだろうか。利口な人にはそれができない。そして多くの人は本当に利口なのだ。だから抜け出せなくなる。自由に生きたいなら、馬鹿になって自分を芸術化して人生を演出していく以外にない。安全信仰をもったらおしまいなのだ。なぜならそこにこそ巧妙な罠が何重にも仕掛けられているのが、この社会の秘密だからだ。結局、金融崩壊の最終段階は保険システムに行きつく。安全という幻想が、信仰がこの100年支配の要だったのだ。だから個人は安全信仰を捨て、馬鹿になり、飛び出す以外に奴隷からは抜けられない。わかりやすいことなのだ。死の間際に病院に行くと、苦しい運命がもたらされるのだ。金儲けに利用され、点滴で生きながらえさせられ、体力を無理やり回復されて手術の連続。そしていよいよお金儲けにつながらなくなるほどまで弱ってから苦しみながら死んでいく。それが安全信仰だ。安全信仰を捨てたからと言って、安全が損なわれるわけではないのだ。むしろ正反対だ。なぜなら、安全信仰には、よってかたってはりめぐらされた幾多の罠がる。それらこそ、ハーバードから東大から寄せ集めた主知主義の冷たい連中の罠が巧みに張り巡らされているが、それらに出会わなくて済むためだ。彼らと違った世界に住むこと。違った世界を作ること。違った世界同士で助けあうこと。何も戦う必要などない。選択詞で十分。それぞれ仲良く競争すればいい。主知主義の彼らだっていつか病気になる、いつか失恋する、いつか死ぬ。その時には、こっちのほうが楽しいよ、、、と招いてあげればいい。争ったらこちらが負ける。