相似象

マイケルの死にアメリカの行く末を重ねるのは私だけではないと思う。物事は測ったように相似したり、関連していることが多い。偶然に見えて偶然ではない。松田聖子の華々しいデビューと日本のバブルの開始は一体だったし、その後の醜聞とともに日本の景気もしぼんでいった。聖子が悪いわけでもなんでもなく、物事は関連がないように見えるもの同士でも、関連して働くことが多いというわけだ。あらゆる事象の相似から近未来を見通すのは、若者よりも中年以降の人間が得意だろう。これまでの経験から直観的に感じ取るものがあるからだ。シンクロから未来を知るには、世の中の出来事を単独ではなく、シンボルとして読み解く姿勢があると磨かれる。近所の寿司屋の主人が、去年の10月下旬からぴたっと、お客が来なくなった、それは本当に突然だった、、、といった。それは寿司屋だけではなく、どの店も客入りが本当にぴたりと止まったのだ。示し合わせたわけでもないのに、そんなことがなぜ起こるのだろう。リーマン破たんによるサブプライムの問題が確かに発生したわけだが、民衆の懐にすぐにそのことが響いたわけではない。景気の悪化にはタイムラグがあったはずだ。なのに10月下旬から日本も世界も突然に客足が減った。それも極端な低下。理由はなんとでもいえる。先々の不安が原因など、、、。しかしそれにしても皆がまるで示し合わせたように同じ行動をとるところを見ると、人間もアリや虫や鳥や魚同様、全員が同時期に同じことをかぎ取り、同じ行動に身構える、動物であることがはっきりする。本能的にこれからの時代を知ったのだ。全員が一緒に。そしてこれまでの時代のインチキ性、もろさをどこかで全員が嗅ぎ取ったのだろう。実態のない、架空の、手ごたえのない、そうした夢やロマンはそうした流れの中で消えていく。これまでの時代のシンボルが消えていくことになる。小室の逮捕、マイケルの死、自民党の崩壊、アメリカの衰退、白人の歴史の限界、、、こうした大きな流れを誰が止めることができよう。変化には大本での一貫性がある。途中でとめられるものではない。しかしマスコミや世界の流れを作ったテーマは本当にすべてが嘘だった、、といってもいいくらいだった。フランス革命、ロシア革命、共産主義、資本主義、米ソ対立、金融支配、温暖化の金儲け、テロとの戦い、エネルギーの枯渇、マネタリズム、、、すべてがインチキだったとは、あまりにすごすぎる話しではなかろうか。歴史の根幹のほとんどがインチキ、ご都合、つじつま合わせ、一部の利益のための構造、、、これだから、地球はおかしくなった。人間は幸福になれなかった。こうしたインチキの根幹にあるのは、一部の人間の欲でもあるかもしれないが、むしろ恐怖だろう。何に対する恐怖か、多くは白人が抱いた白人以外の人間に対する恐怖と言ってもよい。もっと言えば、東洋、とくに日本人に対する恐怖なのかもしれない。この100年は平たく言えば、日本とアメリカを代表とする白人との争いの歴史と考えると、色色な謎がわりに納得がいくように溶けてくる。ご批判は当然あると思うが、よく大本を見つめれば、それが本当であることがわかると思う。これからは武器をもつよりも、繊細な感性やなんでも最高のものを生み出す力が最大のプレゼンスとして働く。世界の人は日本を嫌いながらも、本音では、この国をうらやましく思う。和の持つ力が体現された国、繊細な感性による芸術化が自然と開かれる国が日本だが、そのことが、これからの地球の原動力にならざるを得ない。だまし、インチキによる富の独占によって、旧世界は滅んだ。再興は日本が知らないうちに磨きあげた和と芸術化による方向性しかない。だから日本の政治も変わらざるを得ない。これまでのインチキ方針にあぐらをかいてたり、これまでの世界権力構造の中での権威構造、政治構造では、立ち行かない。それらは、明治以降からの仮の日本の姿であって、西洋に追いつくための一時的な擬態であった。擬態を本体と思っていた権威、権力、そこにまつわる人や金はもう力を失いつつある。一般日本人の感性による立国、芸術化の方向を目指すものがこの国を運営していくことになるだろう。そうした人材は、名もなき人に多い。普通の良識ある、善良な日本人である。ずうずうしいだけの声の大きな人がわかりやすい利益のためにひっぱる形は急速に意味がなくなっていく。そうしたこの100年の上層部日本の擬態とはことなるもっと自然な日本人らしさは、日本語がある限りかろうじて持ちこたえられている。言葉にはそうした力がある。言葉は脳と直結するので、言葉の秘密を知ることで、その民族の遺伝子的な意味合いがある程度はわかるようになっていくと思う。もちろん人間としての平等性は当たり前のことだ。そうではなく、それぞれの言葉の優劣ではなくて、個性と特徴、遺伝子の観点からいえば、目的のようなものがある。出番はどこか、、、ということでもいい。心もとないものの、もうすぎ日本の出番は来る。日本人が偉いとかいうこととはまったく違って、ちっともえらくなどないが、行き詰った白人時代の次の役割があり、それが世界に貢献するという意味。雨の神、風の神、地震の神、、いろいろな神にも働きがあるように、得手不得手があるということ。個の能力を発揮したほうがいい時代には、白人脳、和の能力を発揮した時代には日本人脳、、、と、そう言ってもいいが、なんであれ誤解する人は誤解するだろう。しかしそいうことだ。必要なところでそれが得意な人が出てこないと、世界がダメになってしまうのだから、それぞれがそれぞれのお役に付くのは仕方ない。そうやってこの地球はこれまできたのだろうから。この60年から100年は日本人は擬態を演じて白人的な世界の一員になろうとしていたわけだが、これからは違う。時代が変わったのだ。言葉の中に秘密があるが、今の日本人の言葉は荒れているうえに、歌がない。言葉と歌、、、そこに芸術化、文化、あらゆる発明、発見、生活の喜び、、、の根本がある。評論家や時代の解説家は多いが、本当の根本のことにまで言及する人は皆無である。頭で考えるからこうした根本のことがわからなくなる。体験した音声、体験する日本の歌、声、そこで磨かれていく日本語から、すべての実りが生じてくる。そのことに確信した私は、無い金を出して、11年前に星と森国際短歌大会を開いた。秀歌を選んで披講する。披講とは和歌を古来の旋律で歌うことを言うが、これは体験するしかない。倍音が豊富に出るこの歌は、体験することで、日本語が体験として身に入り、深い意味の言葉体験となっていく、そうした構造を持っている。こうした言葉体験を持つことで、日本語が深く身に付き、和と感性、芸術化などをむねとする日本人の感性が磨かれていく。日本が和歌の国というのはそのことだ。今年も7月26日の日曜日にいつもと同じ、飯田橋の日本出版クラブ会館で授賞式がある。ぜひとも披講を聞いてもらいたい。無料です。毎年行うたびに私がスポンサーだから、かなりのお金がかかる。いつまでできるか分からないが、数年も続ければ、和歌を歌う体験の重要性に誰かが気づいてくれて、力無い私が続けるよりもずっと素晴らしい形で、引き継いでくれる人や企業がきっと現れる、、、との思いから始めたが、11年たってもそうした人も企業も現れない。歌の神様には、それならば私をもっと金持ちにしてくれて、これが続けられるようにしてもらうか、もしくは私はお役御免となって、さらに発展させてくれる人や何かにバトンタッチしてもらえるようにしてほしいものだ。敷島は和歌の国なり、、、というのに、その本当の意味をわかっている人はきっと大勢いるとは思うが、そのことを実際に形にあらわした活動をしているのは、民間ではほんとうに私のところぐらいなのだ。もっと多くのところが、このことに気づき、歌による日本語の復活の行動を無数に広げてもらいたい。本当にお願いしますだ。何よりも大切なことなんだよ。