千駄ヶ谷会談
明日はとても久しぶりに松村潔先生のオフィスへ出向く。久しぶりというか、初めてか、オフィスに伺うのは。あこ先生も合流されて3人で打ち合わせ。その後雑誌社の方を交えて、特集の企画。私としては、ぜひとも3人での特集企画を考えたいと思う。前にもちらりと触れたと思うが、母殺しの特集企画。伝説上、神話上、また実際に合ったケースなど、母殺しを終えたものや、それを終えることができずに持ち続けている者の話しなどを、たとえばあこ先生が。母殺しをイメージとしてとらえ、たましいのどの領域にそれが関係しているかなどを、松村先生に、私が基本的な原理的なものを語らせてもらい、最初か最後に3先生によるトーキングなどで、4回連続特集なんて、魅力があると勝手に思っている。日本人の精神にはとくにこの母殺しは重要である。先日、寺山修二の演劇を久しぶりに見たが、寺山は本当の意味で母殺しをしておらず、苦しい胸の内が見えてくるのがわかった。性のとらえかたが非常に表層なのだ。あれだけの才脳豊かな寺山には性の領域はとらえられない。母殺しが終えてないからなのだが、彼の生い立ちを知るとそのことがうなずける。寺山に限らず、日本の文学関係にはそうしたケースが多い。川端康成も三島由紀
男も、その底に母なるものの希求があるというよりも、奪われてしまっている。以前、松村氏が日本人には、本当の意味での男らしさがなく、男性として成熟しているケースは本当に少ない、いない、、、ということを言っていたのを覚えている。それは本当である。日本人にこそ母殺しは必要テーマであり、それができないと男になれない。そこには明治の勝てば官軍というスタートが大きく影響しているし、さらに言えば、人種の溶鉱炉としての日本列島特有の心理が作られていったことも考えられる。今回はそこまでは掘り下げられないが、せめて明治までは触れなくてはならないだろう。河合隼雄氏も日本特有の母性の問題点については気にしていた。母殺しは本当に重要なテーマであり、これをぜひとも3人の合同企画として実現したい。そのための打ち合わせでもある。というか、松村氏はまだこのことをまったく知っておらず、何のことかわからないと思うが、きっとわかってくれるでしょう。母殺しとは関係のない打ち合わせで伺うことになっているので。
関係ないが、イモ類はいつ植えても大丈夫なのだろうか。ジャガイモを植える時期はちょっと逸しているが、まだ平気なものかしら。イモ類を作っておくと、なんだか安心感が持てる、まるで終戦後のような雰囲気がある。誰もがイモ畑を持っていたらいいのに、、、。と、本能的に感じてしまう時代になった。