出会いと別れの季節

ちょうど卒業式シーズン。18日あたりがピークだろうか。町中では花束を持った学生や社会人、また停年や転勤だろうか、おじさんが花束を持つ姿も珍しくない。3月から4月は出会いと別れの季節である。謝恩会の帰りだろうか、女学生が15名ほどお茶を飲んでいる姿を見て、感慨深く思ったことがある。このうちの何人かは、きっと誰から見ても幸福な人生を送っていき、また何人かは、大変で苦しい人生になっていくのかもしれない。そして言えることは、この15人が一人もかけずに会うことはおそらくここが最後でもう二度とないかもしれない。この喫茶店を出て、じゃね、、、またね、、、、と別れたら最後、もうこのメンバーでは会えないかもしれない、、、という勝手な思いがわいてきたことがある。関係のない中年のおじさんが謝恩会帰りの女子大生の前途を心配しても何の意味もなく、いい迷惑だと思うが、この季節になるといつもそんなことを感じてしまい、皆のこれからの幸福を密かに願う、、、というのが、妙な趣味になってしまった。誤解ないよう言わせてもらえば、何も女子大生に限ったことではない。この時期に集団が集まっているのを見ると、集散和合の運命の動きが感じられてしまい、その人たちの幸福を願わずにいられなくなる。人が集まる場所は大木のようなものだと思う。大木は自分からは動けないが、数多くの葉をしげらせ、花を咲かせ、種や胞子を飛ばす。大木はきっと風が来るのを待ち、胞子や種を思いっきり飛ばすタイミングをはかって、さあ飛んで行け、、、と一斉に緩める。風に乗って飛ぶ胞子は学校が生徒を送りだすことに似ている。このうちのいくつかは、芽を出すことなく腐ってしまい、いくつかはどこかで芽を出すが、無事に成長できるかどうかはわからない、数少ない幸運な胞子はきっと大きく成長し、立派な木になっていくのだろうが、大木も学校も、すべての子供たちの安全と成長と発展を願って手を放し、胞子や子供を外に出すのだ。こうした願いの美しさが学校にはなくてはならない。昔の卒業式では必ず仰げば尊し、を歌ったが、今は歌わない学校も多いと聞く。何を歌うのかというと、好きな歌を選んで歌うという。なんだかおかしな話しに感じる。本人たちがよければそれでいいともいえるが、それだとどこに思いがあるのだろうか。送り出す者の思いや送りだされる者がの思いは本当に作られるだろうか。何も仰げば尊し、が良いと言っているのではないが、あの歌詞とメロディには、長年かけてその歌の中にある思いが多くの人たちに感じられ、心を揺さぶってきたものがある。こうしたものがなくなるのは、学校生活そのものに、思いがないためなのだろう。要するに、心に沁み入る思いがないのに、ああいう歌を歌っても意味ないということだが、それならば学校自体意味がないともいえる。教育は今後変わっていくことは確かだが、人間の心を作ることに完全に失敗したツケはこれから大きくなってくる。日本や世界がおかしくなったのは、人間の心を育てられなかった大人の責任なのだ。未熟な心という不良資産の重みが段々と増していき、日本も世界も厳しいものになっていく。まずは心を育てることから始めるのがいいが、日本の教育の最も下手な部分である。
 学校教育の基本は悪い人を誰も作らない、ということがカギを握る。悪い人を作る学校は必ずおかしなことになる。物事にはもちろん悪いこととよいことはある。これははっきりさせる、しかし悪い人と良い人は作らない。そこが社会と学校の根本的な違いである。勉強ができない程度で悪いと言われるような教育では、話しにならない。勉強は大切だが、心が育つことはやはりそれ以上に大切である。心さえある程度育てば、何かで必ず努力できる子になるので、勉強はダメだとしても、きっと生きる道を見つけられるようになる。今の時代は人間の心がダメなので、少しの障害ですぐにダメになってしまい、すぐに生きられない状況がやってきてしまう。

うお座星のローズ水プレミアムは売り切れました。次回新月は3月27日、牡羊座プレミアム調合予定ですので、しばらくお待ちください。ありがとうございました。