少子化と芸術化
日本のあらゆる問題の根底に少子化があるというのは、確かにそうだと思う。少子化対策のお粗末さは問題外だが、そこには少子化が最重要問題という認識がなく、また、少子化と企業利益が反比例する構造を理解してないので、対策が遅れがちになり、血の通わないものになる。やっぱり最後はそれを扱う人間の問題だ。家庭を犠牲にさせてのびてきた日本の企業利益。外需優先で国内を貧しくさせ、外貨を稼いで大威張りの日本企業だったが、そのつけはあまりに大きい。家庭を犠牲にさせることで少子化を招いた損失をどうしてくれるのか。目先の金儲けがうまい人間がもてはやされ、優秀な人間だと考えられた。まったくおろかなことだったが、彼らは優秀だったのではなくて、計算高かっただけではないか。しかも本当には利口ではない。結局経営収支すら赤字に転落してしまった。政治家、企業家、官僚、同じタイプだった。血の通わない、冷たい利害に聡いだけの者が上に立ちすぎた。少子化こそそのつけである。
では、少子化だともう国には先がないのだろうか。私は少子化での有利な方向が芸術化だと思っている。少子化の問題を十分に補える方向が芸術化である。国土を美しくする。生活を美しく潤いがあるものにする。企業価値は製造するものの芸術化にはげみ、人を喜ばせるものを作る。スポーツも大切だが、スポーツ価値は文化価値、芸術価値に比べ、不当に高く評価されすぎてきたので、弊害が大きくなっている。なぜあれだけオリンピックが盛大に行われるのかは、国家威信と関係するし、さらに言えば、弱肉強食、そして合理的社会、優劣社会の低レベルでのわかりやすさに、スポーツはすぐに貢献するからである。長島終身名誉監督と言われるが、私は本当にそんなに大したことやったのかと思ってしまう。長島の偉大さは、むしろそういうことではなく、野球を通じて、日本人の意識と意識のレベルを国というか政府の都合がよいように作り上げた、そういう功績という気がする。そして長島監督の顔を見ると、私はこの人は、そうした日本での自分の役割をよく理解して行った、まさに確信犯であったと思ってしまう。長島が悪いと言っているのではない。イメージで、スポーツを通して、間違いなく彼は日本人をある方向へもっていく重要な役割をこなしたと思う。その意味では確かに大天才であるが、私はそれは本当の愛情ではなかったという気がする。長島の寂しさは、そんなことが本当は影響しているのではないか。息子の孤独な面影、奥様の孤独な面影を勝手に私は感じてしまうが、それは誤解かもしれないが、長島の仕事の内容から来るものだったのではないか。それはそれ以前の川上監督にも言えたし、現監督の原監督にも感じる。巨人軍には世論誘導の大きな社会的使命があったのだろう。しかし少子化ではもうそれは続けられない。大きなスポーツ的社会幻想は急速に弱まる。オリンピックもいずれそういう運命を迎えていくと思う。かわって芸術化がすべてにおいて優先されてくる。優先というより、重視され、関心の対象とされてくる。美しい、自然、山、川の再生、感性の豊かさがうずまく社会づくり、、、その際に、今の企業の方向は邪魔にすらなる。まして官僚のでしゃばり具合は劣等感からくるものだけに、非常にまずいことになろう。彼らは正しいそうした方向をきっと邪魔する。そうしないと自分らのアイデンティティを失うためだ。結局今の日本は男性社会の男の嫉妬によって動いていることが、最近の政治動向などを見るとよくわかる。男の嫉妬ほど怖いものはない。本日は何度かいても日記が消えるので、あまり長くなると消えたときのショックがあるので、また続きを書きます。