ノーベル賞につづきアカデミー賞も
次の時代に大きく存在感を持つものは、日本文化であることは以前から語ってきたが、今回のアカデミーも二部門受賞。まだまだこれからである。世界は日本がアメリカにさんざん利用され、国民の富が奪われ、その結果貧しかったことをよく知っている。本当の敵を見抜けず、それでもなを人の良さを振りまく日本人に一種の驚きを通り越した、凄いものを感じ始めている。しばらくはまだまだ日本も大変だと思うが、庶民一般の生活はかえって楽しくなっていく可能性も高い。もう馬鹿みたいな残業もなくなるのだから。前から、あまり仕事など何かを犠牲にしてまでする必要がないと私は言ってきたが、現状を見れば、何となくその意味がわかってもらえるのではないだろうか。一流企業にいたとしても、先はどうなるかわかならいし、もちろん普通の企業でも同様、まして、派遣社員だとしたら、知っての通りである。これまでの馬鹿みたいな仕事のやり方は通用しなくなる。無理をして時間を割き、私生活を犠牲にさせて、、、というやり方は、売れる先があってこそのやり方で、ベルトコンベアーの回転速度を上げれば上げるほど企業が儲かるという、幼稚な発想でしかなかった。私はビジネスは好きな方だが、どうしても効率優先一辺倒の企業体質が嫌いだった。そういう価値感では本当には守れない、、、という思いで見つめてきた。社員に無理を強制し、一円、一銭までけちったあげくに、企業が解体するような騒ぎとは、恥ずかしい話である。復活するのは文化である。日本文化の深さ、繊細さ、大胆さ、、、それらを再び日本人はアイデンティティとして着地していくのではないか。レオだナルドダヴィンチの絵画は確かに素晴らしい、、、しかし、それと葛飾北斎を比べて、はたしてどちらが上かは、誰にもわからないのではないか。まず、どちらが上という判断自体がおかしいとは思うが、これまで百年にわたって、レオナルドは世界のレオナルドだったという意味ではやはり常識的に上位に置かれていたのだ。事実として。光琳など日本画のあでやかさ、華やかさは、印象派の絵画を完全に凌駕しているように少なくとも私には見える。私は音楽、とくに日本の古典の音の文化、倍音を伴う、高周波の音、のど声の安定感による謡いや調べ、発声は、ベルカントに劣らないものがあると思うし、日本の若者がレゲエやソウル、ロックを歌うときに、誤解を恐れずに言えば、やはり日本人にはあまりあわないな、、、という思いをよく感じてしまう。創造性ある若者がなぜ西欧の似合わない音楽をやるのか個人的にはよくわからない。ただ西欧のものでも、日本人的にアレンジした世界を作っている人がやはり人気があるのは、確かにそのとおりだと思うが。ただマネにしかすぎないミュージシャンも多いのは残念というか無惨な気さえする。どこの文化も奥は深いが、日本の文化も同様でかなり奥が深い。よく言われるのが、わび、さび、かろみ、、、などだが、これはもの凄く深いし、一度、ちゃんと教えられて、再度自分で意識したことで気づいたた外国人なら、その凄さ、深さを日本人以上に理解している。そして憧れる。そういう文化は他にはあまりないためである。とくに庭などには、言外の意味あいが現れるため、外国人は庭を通して日本の分化に触れるケースが多い。西欧にも素晴らしい庭文化が豊かにあり、私もヒルズではそれを意識して作っているが、わびさびの観点から言えば、苔むすさながら浄土の庭とでもいえるものが、日本の精神の奥座敷に構えているように外国人には見えると思う。盆栽の世界観も同様だろう。それを知ってしまうと人の生き方にかかわるような体験にまでこうした文化は行きつく。そして、そうした深い文化的素養を日本人はほとんどの場合、遺伝子的にもっているのだ。これは非常に有利であり、だから経済でもこれまで世界相手に負けずにこれた。元はそこにある。決して合理性や日本企業独特の閉鎖性や官僚性のたまものではない。こうした日本の力を海外が評価し始めている。いま、自国の文化を体験せずに海外に目を向けることはあまりにもったいない。英語をしゃべるよりも、体得した日本文化を通して外国人と接する方が、10倍は尊重される。