ひふみ祝詞

明日の晩も披講での出番がある。某出版社のパーティでお祝いの歌とひふみ祝詞を奏上する。お祝いの歌は和歌の31文字のものだが、それとは別に祝いの気持ちをこめたひふみ祝詞をH氏とともに奏上。正しい調べはわからないが、その時の体感、直観で自然と調べが出てくるにまかせた祝詞になると思う。ひふみはご存じのように数え唄だがそのスケールが壮大である。ひふみよいむなやこと、までで十、次にもで百、ちで千、ろで万、、、と最後のけ、までつづくととんでもない数になる。まさに宇宙の大きさを思わせる。このひふみをすべて一音にまとめると、オーの音となり、それが宇宙に鳴り響いている音だという。あらゆる音を包括するオーには、あらゆる営みを肯定する音としての作用がある。自分の利害にまったく関係ないことで私たちは感動した際、おもわずオーと発声してしまう。純粋な驚きであり、あらゆる営みの肯定として出てくる音であることがわかる。神事でもオーの発声から行うものは多い。自分がいやになったときは、思いきり、おなかの底からオーと発声してみる。すると自分と関係のないあらゆる物事が自分と関係して存在していることが体感上でわかる。そして自分という自意識は消えていく。結局幸福とは、自分のことを忘れていられるかどうかなのだ。自分のことをいつも常に考えているとき、人は不幸なのである。オーの発声とともに自分を忘れる。自分を忘れると自分とすべてのものが関係しているという体感が出てくる。それが幸福である。満ちるとは、充ちるで、すなわち、十のこと。充足というように。十とは、一桁上がる数で、立体の世界に入ること。その前の九が苦で最も苦しいが、九を過ぎれば、窮すれば通ずで、十になる。上から見れば苦しくなくなる。自由になる。満たされるとは、すなわち、十の立体の世界に九から入ることを意味する。その気が宇宙には充ちており、音となって響き渡っている。そのことをひふみ祝詞は教えてくれる。というよりも体感させてくれる。本当の祝歌だと思う。これを明日歌うが、来年の新年会というか、木星インみずがめ座の食事会を行う予定を立てているが、そこでも、祝歌として、ひふみ祝詞を歌うつもりだ。多くの人が九の苦で立ち止まり、なんとかしようと苦心し、努力し、あがくが、それでは九からは抜けられない。立体には入れない。そのカギは何かというと、自分を忘れることにある。九の際にだれでもあがくが、ついにあがいてもダメだとなると、あきらめとはことなる受容の態度となり、そしてああしようこうしようという作為を捨てる段階が訪れる。その時、すっと苦を受け入れると十の世界が開けてくる。ああしよう、こうしようをあきらめ、自分を捨てた時、すっと十の世界が開ける。世界は九では終わらない。そして十でも終わらない。百、千、万、無限の立立体、複立体の世界が開けるのだと思う。私もそれはわからないが、きっとそうなのだろうと思う。そのつもりでひふみ祝詞をあげる。