公演の反響
21日に行われた公演の反響が届けられている。リップサービスもあるだろうが、とても好意的なものが多かった。しかし私自身は自分の語りが、終えたあとはまあよくできたと思っていたが、あとでビデオを見てみると、まるでダメだった気がした。最初のスタートの音の高さが高すぎたせいで、うわついてしまい、声の微妙な抑揚が効かない語りとなってしまった。朗読は確かに難しいが、とくに古典の、しかも古事記となるとそのお手本もなく、暗中模索の状態だったのだから、仕方ないともいえるが、反響はみなさま、愛先生の声がいい、、、であった。実は語りで声がいいと言われるのはよくないのだ。声の印象ではなくて、内容が耳に入っていかなければならない。高い音程で始まってしまったので、抑揚がつけられず、声を無意識に聞かせてしまったのだろう。また出直しである。私以外のその他の部分はとてもよくできていた気がする分、反省しきり。しかし本当に朗読は難しい。私もその道の第一人者と言われる先生に、3年ほど習ったことがあるが、難しいことだけを学んだような気がする。森真一や矢代あきのように、独特のダミ声なら、すぐにその人の世界が作れるので、実は歌でも語りでも有利なのだが、普通に声がいい人はその分難しさがある。ただし決まったときは、これは本当に素晴らしい語りとなる可能性はあるにはあるが、大体は不利である。声の文化は本当に奥が深い。今回の語りは皆様ほめてくれたが、やはり素人の域を出ないものであることは明白だった。だが、素人ならではの真摯さ、切迫感はあったのだろう。よいと言ってくださるのはそのためである。
まだ足りぬ踊り踊りてあの世まで
という辞世の句があるが、芸の奥深さに終わりはない。語りと歌、語りと披講のスタイルに関しては手ごたえはあった。来年、私は数人と組んで、語りと歌の芸を追及しようと思っている。和の音声を大事にし、高周波、倍音が発生する、新しいヒーリングの可能性に目を向け、実践していくつもり。現在のCDでは16000ヘルツ以上の音はカットされている。癒しに必要なのは、耳に聞こえない20000ヘルツ以上の音なのだ。そして倍音。これを意識した和の音声表現としてのグループ活動だ。ブルーレイの時代が来たら、数値においても、高周波、そして倍音が発生していることが実証できるわけで、いずれは需要も出てくる分野との読みもある。本来音楽は子供も大人も老人もともに楽しめるものだった。しかしビートルズ以降、音楽による若者と大人との分断がなされた。若者が聞く音楽と中年以降の人の聞く音楽に差があるのは本来は異常であり、歴史的にも例を見ないと思う。ビートルズは今では大人も子供も、、という音楽になったが、当初ビートルズが果たした影響は音楽の世界におけるものより、文化の分断を図った意味で破壊兵器なみの影響があった。私はこれをまた元に戻していきたいと希望している。それにはより本質的な音の理解からくる、良い音楽とそうでない音楽の違いを数値で示せることは凄いと思う。ロックやヒップホップ、レゲエが悪いとか言っているのではなく、きちんと音楽が波動的に理解されているかどうかが重要だと言っているだけ。神経をマヒさせたいことも人間にはあるし、そういうときにはロックはいいと思う。関係性の遮断や独自の力の行使にはロックやレゲエはよいにきまっている。しかし人間はそれだけでは決して幸福にはなれない。関係性の回復、それには自他を超える倍音、高周波の音がどうしても必要なのだ。また天界につながる声として、音の柱のようなものの必要にも倍音や高周波は関係している。音というものの意味を理解することは、物が物質ではなく、波動として存在している、というか関係しあっているという理解をもたらす。なぜそれが重要かというと、それが事実だからということに他ならない。そのことがわかれば、こういうときにはこの音楽、こういうときにはこれ、という正しい選択ができるようになっていく。波動の時代は音の時代ということもできる。音は物質を通過していく。私たちの体の中にも心にも。