真夏の思索ー冬
私は中高時代に真夏になるとよく冬の絵を描いた。理由はわからない。雪景色を描きたくなるのだ。暑いからなのかもしれないが、もう少し心理的な理由があったのだと思う。おそらく8月の始め頃に異性に対する思いが高まり、その後期待値は高まるものの、現実はそれに見あわず夏休みの終わりが近づき、段々と失意の波動が優勢になってくるあたりで冬の絵が描きたくなったような気がする。若者にとって、好きな異性がいてもそれ以上に進展しない夏は苦しいものだったのだと思う。現実の発展がない分を冬景色に置き換えることであきらめというよりも長期戦に持ち込むという合理化のつもりだったのだろう。とかく恋心はこうした矛盾と合理化での守りという構造を持っている。若い時代はとくにそうだ。人はだから恋をすると、どこかで自分にウソをつく。恋がうまく行ってないときはとくにそうだろう。夏の全盛から終わりにかけては、蝉も激しく鳴いている。蝉の鳴き声も異性を求める音なのだ。その音に知らぬ間に人もせっつかれているのかもしれない。恋の時期が終える、、、人の活動時期も盛夏が過ぎればすぐに秋が来る、、、とくに高齢者にとっての夏はひとしおの思いがあるのではないだろうか。最近の死に欲に固まったご老人には無縁かもしれないが。先日、本屋で凄い光景を見た。よたよたしたかなりのご高齢、しかもあまり健康そうに見えないお年寄りのご夫婦が2人で言い合うように、真剣に本を見ている。なんだろうと思って覗いてみると、それは株の本だった。これから株をやって一日の値上がり値下がりに一喜一憂するより、残されたときを有意義に過ごされたほうがいいのではと思った。大体、夫婦で言い合うような感じで投資してもまず失敗するだろう。夏は物事に終わりがあることを教える残酷な季節でもある。時は必ず流れ過ぎ去る。時の流れの中で人は色々なものに、色々な人に、色々な事柄に出会う。誰も時のベルトを止めるわけには行かない。過ぎ去る夏。過ぎ去るとき、、。これを永遠に繰り返して終えることのないめでたさととらえるか、悲しみととらえるかが、その人の哲学の分かれ道でもある。私は負け惜しみではなく、今、また青年時代に戻れるとしても、きっと戻らないと思う。青年時代に戻っても、その後今の自分に再び戻れるかどうかはわからないのだから、やり直す気持ちにはなれない。青年期を終え、それをきちんと過去にして眺められる今の自分は青年期よりもずっと自由なのだ。またあの苦しい若い時代には戻りたくない。若いというのはエネルギーはあるが、苦しい時代なのだ。どんなに楽しそうにしてみえても。何かを失うことで、すぐに頓挫してしまうのが若い時代の幸福。それは本当の幸福ではない。人生はそこからスタートする。占星術で言うなら、太陽期の始まりである。24歳ごろまでの金星期から、25歳から35歳ごろまでを太陽期と言い、自立とそれにともなう社会的自我、社会的立場を作らねばならない時代。甘えられていた金星期とあまりにかけ離れたスタートである。学生が文化的な楽しみを謳歌したのもつかのま、就職してからはあまりの状況の違いにショックを受けるが、まさに太陽期の始まりである。しかしこの苦しい太陽期がその後の人生を非常に大きく左右する。太陽期をごまかして生きた人はその後は不満と弁解の人生になっていく。太陽期をきちんと苦しみ、自分なりの人生のスタイルを確立した人は、一生の自分らしいベースをもてる。だからどこか安定している。青年は苦しんだほうがよいのだ。そこからしか生まれないものが人の一生を支える。夏は快楽と情熱のおしまい。蝉は何を思って鳴いているのか。人間の時間はその次に始まっていく。