前半のG1終了
本日の宝塚記念で今年前半のG1競争は終了。桜花賞、オークス、皐月賞、ダービー、安田記念となんらかの馬券を一応ゲットしてきた今年のG1だったが、最後の宝塚記念は自信たっぷりだったのに結果は最悪。狙い馬が最下位とは恐れ入った。4着で負けるよりはまだいいかと一人納得しても、残念は残念。明日は大払いの日で6月もおしまい。早いですね。自分でまた祝詞を謳い上げるつもり。しかし梅雨とは言え、よく降ります。このところ梅雨には大雨が多いが、昔は梅雨とは静かな雨が長く続くという印象だった。この数年、梅雨には集中豪雨と、やはり気候が変わってきているような気がします。アンダルシア地方では連日、40度を大きく越える気温だそうで、47度がすでに出ているとか。熱い地方ではあるけど、それにしても、という印象。今年の夏もどうやら猛暑らしく、温暖化の爆発曲線に入りかけているような不気味な気配も。地球は病気にかかっているわけで、人間がやってきたことというのは、地球から奪うだけ奪い、それを富に変えて図図しくて悪知恵のある人が独占してきただけというお粗末な歴史とも言える。一方で、そういうものとは関係なしに、多様な文化を生み出し、文化と自然のなかで生きることに専念しようとしていた大多数の人がいる。しかし大多数のそういう人は、前者の意図に負け、支配の枠組みにとらえられ、その結果、全体が生命力を失うに到ってきている。結局、人間が残したものの中で、意味あるものと価値あるものとは、文化に他ならない。今の子供たちは幼稚園でも誰の家が一番金持ちだとか話して憧れたり人気が出たりすることがあるという。地域の文化がそれに比例して失われていっている。地域の文化が息づいていれば、子供たちはそれに憧れをいだく。あのおじさんのように歌いたい、あのおばさんのように踊りたい、お姉さんの太鼓の音は特別だ、、、というような感動も驚きも憧れも失っている。これまではそういうことは、経済よりも下のものだと思われていたが、実はそうではない。経済よりも重要度が上に位置する社会作りが大事。そうしないと地域経済自体が生じない。子供の憧れが何かで人はどこに暮らすかが決まってしまい、過疎化が進行していく。地域が誇りを取り戻すには、文化の再生が基本なのだ。以前、暗闇の裸祭りで、シンギという香を炊き込めた木を奪いあい、別所にシンギを運ぶ祭りを知った。数千人の屈強な男が参加するその祭りで、何回もシンギを別所まで持っていけたラッキーボーイがいた。ボーイと言っても60代ぐらいのおじさんだが、二年連続で栄冠に輝いた。そのおじさんを追ってドキュメンタリー番組が進むのだが、おじさんの言葉に私は感動した。成功の秘訣を尋ねられても、自分でもわからないという。しかし、一年中そのことばかり考えている。シンギのことしか考えていない、、、と言ったのだ。私は頭が下がった。思わず拝みたくなった。おじさんはタクシーの運転手だったが、一年中、車を走らせながら、シンギのことだけを考えて暮していたのだ。文化の凄さ、面白さ、生きがいだ、、、、人は文化によって生きがいを得る。それが生きている証なのだ。これをなくして発展した近代化はどうしてもお粗末なガラクタ文明しか生み出せなかったのだ。そして今、そのガラクタ文明が維持できずに沈もうとしている。お金儲けは私も好きだが、お金があれば幸せになれるというほど人生は単純ではない。文化は必然として人と人をつなげる。その場所に意味が生まれる。すなわち地球が喜ぶ。ジュセリーノさんは夢予知により未来を知ることはできるが、ではどうすればそうした未来が来ないように悲劇を防げるようになるかは、ジュセリーノさんの仕事ではない。それはそれぞれの場で行われるひとつひとつの活動にかかっている。文化の意味づけ、再生、文化的生きかたの実践は遅いようで最も早く地球を癒し、人間を癒し、時代を変革させることになるだろう。