開運倍音マントラ
おとといの16日に放送局の1っ室をお借りして倍音マントラの録音をした。結果から言うと、このままの音では出したくない。百人一首の録音でも感じたことだが、マイク通しの音は倍音やマントラ、披講にはそぐわないと思った。CDに落とす場合でも、耳に聞こえない周波数はあらかじめ削り取られている。耳に聞こえない周波数こそが大事だというのに。頭の良い人はバカである。まだレコード針の音がチクチク聞こえるアナログ録音のほうがこの意味では上だと思う。しかしそれにしても、マイク通しの音がどうもダメになってしまった。魅力を感じないのだ。このことは今後大きなテーマにきっとなっていく。本当の宗教は最終的にリアリティに行き着かねばならないはずである。しかしどの宗教でも、教祖がマイクを通して信者に語っているのだと思うと、落ちたな、、と思う。自然音の力とマイク通しの音はまったく違う。このことがあまりに軽視されすぎている。若者のミュージシャンの中には、音というのは当然マイクの音、との認識しかない人が多い。このことの反省はいずれ必ず出てくる。そしてミュージシャンのありよう自体を大きく変えていくに違いない。音とは自然音であり、マイク通しの音はノイズなのだということに気がつくことになるだろう。これは理想で言っているのではなく、音の意味、音の効果、伝達の質において、物理的な真実の違いなのだ。マイクの音芸術と、自然の音芸術ではまったく違うものがあり、命の部分で言うと後者のみが唯一のものである。人は音を通してその波動を受け止める。歌の内容は音の波動体験として魂に刻まれる。ノイズはその魂にふたをする。このことが本当にわかったのは、披講をするようになってからである。自然音による音楽の復活は重大なテーマであり、急務でもある。こころある音楽家、ミュージシャンにこうした確信犯が生まれてきて欲しいと願わずにいられない。私もこれからはマントラや披講の研鑽をさらに続け、人間の生の発声において荒れ果てた自然、破壊された自然の魂に語りかけて行こうと思っている。誰にもみとめられないだろうが、まったくかまわない。荒れて傷ついた地球をなぐさめ、その復活を促すのは、思想でも運動でも宗教でも政治でもなく、命の音によるのだ。人にも植物にも、鉱石にも、大地にも、海にも、私たちは生の声による歌いかけを行わなくてはならない。倍音こそ自他の区別を超えて、そのものと一体となる働きでそのことをきっと成就させてくれるに違いない。そして最高度の呪力を持つ形式である和歌を披講することが私の願いである。これをこれから実践していこうと思う。地球破壊はもう政治では解決しないところまできてしまった。地球で生かせてもらっているそれぞれの命が個として働きかける以外にもう方法はないだろう。その時、ノイズは退けられる。通じない。クリシュナムーティーは説話の最中に風が吹き、木々を揺らすと、途中で話を止めてその音に聞き入ったという。わかっている人だったのだ。マイクを通して大勢に真理を伝えようとする宗教を私は信じない。その姿勢そのものに矛盾がある。地球に働きかけられるのは生の声しかない。そのために、私たちには、非日常の声が与えられている。倍音、マントラ、披講、声明、ホーミー、祝詞など、さぐるように音から私たちは出発しなおさなくてはならない。最後の最後に、歌の神様がお出ましにならない限り、この世は救われないことが段々とわかってくるだろう。