オセロゲーム

生まれてはじめてオセロゲームをやった。日本人が考えたゲームらしい。白黒、陰陽の陣地合戦は新鮮で面白かった。大逆転されて負けてしまったけど、ポイントをしっかり決めると大逆転が可能なようだ。酸とアルカリを中和する際に、小学校の時、フェノールフェタレインとかいう液を使った気がする。青だか赤色が最初についていて、中和するとそれが一瞬で無色になったが、オセロにも運命の変わり目にもそんなときがある。まじめな人が意外にもろいのは、この頑張りどきというか、重大なポイントに弱い点だ。まじめな人は日ごろから努力し、不安をバネに頑張る。しかしプレッシャーがもっともかかるここ一番ではかえって逃げ腰になったり、周囲にあわせることしか考えられなくなる。エネルギーが残っていないのだ。ルーティンで疲れきっている現代人にもこうした傾向がある。人間の才能はやはりここ一番、重大な分かれ目の際に人並み以上の力を発揮できるかどうかかもしれない。広告出稿料をたくさん支払って仕事をしていた時代があった。広告代理店の人とずいぶん付き合ったが、成績がよいときは一蓮托生のようなせりふを毎日口にする。そのことがものすごく気になったが、案の定、成績が振るわなくなるとすぐに逃げの姿勢であった。信頼できる人というのは、大変なときに力になる人でなければほとんど意味がない。残念なことにこの国は上に立つ人が都合が悪くなると逃げる人ばかりである。現代は戦争がないのでまだいいが、これが戦中だったとしたら、本当に悲劇である。軍隊というのは完全な官僚組織であり、上の人は軍人というよりも官僚である。自分のメンツを保つためだけに、無謀な戦略を強い、幾多の若者の命を奪ってきたのかと思うと、私は今でも腹がたつ。軍事行為のかなりのものには、こうした傾向がある。官僚というのは、人の命を駒として動かすことに優越を感じるほど、劣等感の塊というのが本当の姿なのだ。5000万人もの年金を不明にしておいて、責任者は誰一人切腹もしないでいられるとは、本来ならおかしな話である。しかし5000万人分とはやはり意図的でないとなしえない人数である。働いている日本人は一体何人いるのか。5000万人というとそのうちの何割なのだ。これが意図でなくて他に何があるのだろう。だからこの国の上には冷たい、官僚が牛耳っていることがわかる。国民を駒にしか見ていない人が上にいる。命を戦場ではなく、真綿で締めて殺そうとしている違いがあるだけだろう。あまりこうした批判はしたくないが、やはりおかしいですね。鳥インフルエンザがもし日本に入ったら、政府の言うことなど聞いていたらきっと最悪の事態になるだろう。それぞれ考えて対策を打ったほうがいいい、そういう時代になった。東京にもし鳥インフルエンザが発生したら、おそらく官僚と政治家は都会から逃げて、その後東京封鎖命令を出すと思う。流入の禁止である。となると食料はおそらく3日で底をつく。在庫管理が徹底した合理主義のお陰で東京に食物などないのだ。そうした状態で移動禁止令が出されたらどうなるのか。ヘリコプターで空からばら撒くにしても限界があり、皆に食料がいきわたることはない。親身な対応など絶対に期待しないほうがいい。悲しいことだが、最低でも1ヶ月分くらいの食料と水は確保しておいたほうがいい時代に入ったのだ。まさか、と思う冷たさが官僚的なものの特徴。劣等感から来ている冷たさだから本物なのだ。何人でも殺せる。鳥インフルエンザが日本で一人でも発生して人人感染したら、すぐに買い物に行ってその後はもう外に出ないのがいいと思う。仕事ももちろんでそれどころではない。政府は大したことない風を装うだろうが、懐疑の目で見ること。今の政府に国民の安全を守る力などない。しかしこんなことを言わねばならない時代になってきたのは本当に悲しいことである。だが、悪いばかりでもない。どんなに悪く見えても、官僚的なものでは未来が作れないので、彼らには本当のポイントが見えない。目先の駒を有利なほうにすすめているだけである。その点、自分らは国民と違って頭がいいと思っているから、かえって重大なポイントが見えない。オセロで言えば、数にこだわるあまりコーナーのポイントに目が向かない。あまりにひどすぎる事態はあるポイントで一挙に黒から白に変わるだろう。どうにもなくなると彼らは最後は逃げ出すからだ。自分の天下がつぶれる寸前に逃げ出す。日本が復活するのはそれからである。だから悪くいうのはよそう。もっとどうにもならなくなっていただいて、早く逃げていただこう。もしくは、高度の文化芸術の力で改心していただくか、どちらかである。しかし地球規模でこうした人間の冷たさが悲劇を生んでいる。子供が安価な労働力で使われている可能性があり、世界のメーカーやブランドの利益の構造になっているというのは、まさに悪魔の経済ではないだろうか。戦争も金儲けのために起こす人がいるだけで、崇高な問題があるわけでもなんでもない。私が平和運動が嫌いなのは、それによって何か戦争が難しい、高度な理由で行われている錯覚を生むという錯覚を生じさせるからである。平和運動などいらない。戦争の本質がわかれば特別に平和も何もない。戦争は金儲けをたくらんだ人が起こすものがほとんどである。金儲けをたくらまなければ別に平和主義者でなくても戦争などしない。戦争になるとすべての家が壊れる。車が壊れる。インフラが壊れる。後には膨大な量の建設が生じる。壊すのが一番儲かるのだ。だから起きている。平和主義になれば戦争が無くなるのではなく、貪欲が戦争を起こす。戦争も平和主義も私には一体に思えるときがある。冥王星の影響かしら、あまりこういう話が好きではないほうなのに、なぜか怒ってしまって。武器を持たない子供や女性、、、を平気で殺すという感性は、異常そのものであり、平和とかそういうレベルのものではなく、極めて少ない、異常者の犯行という認識が本当なら必要なのだ。しかし彼らは小手先の頭の良さはあるので、どうすれば人々を戦争支持にまで持っていけるかの方法を知っている。うお座の時代というのは、本尊が隠れていて、イメージやムードを操ることでその本音を達成させる、そういう時代だった。神も奪われ、宗教も奪われ、理想も奪われて、その中心の本尊には悪魔が座っている、それがうお座時代の特徴であり、その時代が今、終わろうとしている。終わろうとしているとは、すなわちピークということでもある。やっぱり個々が目覚めなくてはダメだね。地球規模のオセロゲームで勝たなくては。コーナーだけは神は守っているから、必ず大逆転があります。