目黒自然園
昨日は久しぶりに目黒自然園に行ってきた。小学校のクラス会というか新年会があってその帰りに全員で行った。やや酔った風のおじさんやおばさんたちが閉園まぎわにドタドタ押し寄せて自然観察もないが、いつ行っても武蔵野の自然が今でも息づいている数少ない場所だった。数少ないどころかもうあそこだけなのでは。しかしみな元気で変わっていなかったのはよかった。高校のクラスメートは結構な人数がなくなっている。小学校のクラスメートはかなり以前に水難と医療事故でなくなった二人だけでその他は今でもみな元気だということだ。昔が突然戻ってくることがある。人や物事の時代の変わり目の際にそういうことが多いと、運勢学で学んだことがある。さしづめ、3丁目の夕日が流行ったり60年代、70年代の歌や流行が再現される機会が多いこの頃は、時代が変わり目を迎えているのだろう。その峠を越すには何が必要か。私は消耗していない、ということが大切だと思う。消耗していないとは、やる気を失わずに前向きになれる部分を残しているかどうかということだ。今の社会は上からの指示に素直に何も考えずに対応できる人間が求められているが、それだとどうしても消耗してくる。では、自分の考えや主張を常々出して生きていくのがいいかというと、これも違うようだ。何かにつけ批判的な生きかたは結局は何かに依存したい気持ちの現れであり、文句を言えば言うほど自身の力を失っていく。では消耗しない生きかたとは何かだが、生きがいや本当に楽しめることを持っているかどうか、ということになるのだろうが、忘れてならないのは、小さな喜びを感じる態度、能力があるかどうかだ。毎食の食事を有り難く、心から体からおいしくいただける、、そこに幸福を感じられる、、、これは強いと思う。これだと大事な部分の消耗しようがない。生きることを受け入れるとは、命の委譲とも言える食べることに対する、有り難さ、幸福感を持っていることでわかる。食べることをそっちのけで仕事している人を見ると危ないものを感じる。食事をおざなりにして競馬検討していても大体は外れる。仕事も同様ではないか。食事に対するありがたさにプラスして自分の楽しみがある。その楽しみが多少なりとも創造性と関係していれば人は消耗はしない。両方ないときに消耗していく。不安を背景に持ちながら一生懸命努力するとき、人はもっとも消耗する。この時代から、この社会から、この組織から見放されたくない、、変に思われたくない、、これだけで努力すると消耗する。いまの時代の元気のなさは、まさに消耗している人の集合現象である。社員は何かを恐れている、、、部長も上を恐れている、、社長も評価を恐れている、、、。小学生も恐れている、、、教師もを恐れている、、、父も母も恐れている、、何かに誰かに評価されることを恐れている。現代は資本主義でも社会主義でもなく、人気主義で評価を恐れる時代と言えるかもしれない。不人気を恐れずに自分の人生を見つめなおすときっと力ある生きかたができるのではないだろうか。