メリークリスマス

教会のクリスマスから遠ざかってもうどのくらいたつだろう。私は中学高校大学とミッションスクールだったこともあって、青春時代は教会生活だったといってもよいくらいだった。色々な催しが定期的に教会にはあるが、感受性の高い若い時代にそうしたイベントをこなしていった経験は知らないうちに今でも影響を与えている。催しやパーティや来客を迎えるなど、行事に対するストレスがまったくない。教会をやめたのは、キリスト教の教義についていけなくなった面が大きい。聖書の中のイエスと教会が言うイエスとの中に異なるものを抱きだし、自分のイエスや信仰を求めだした結果だった。そのうち、私はすべての教義から離れ、いつしか、賛美歌を歌うことだけが自分の信仰になっていった。それは今でも同じである。賛美歌を歌うことで、キリスト教の神でも何でもなく、私は何かに祈っている。考えてみれば披講も同じである。和歌を披講することで賛美歌同様に、祈ろうとしている。自然とそうなってしまう。歌が私の神様なのかもしれない。そういえば姉たちもそうである。歌うことで自分の人生を支えているように見受けられる。教理の中にいる神と、文化の中にいる神とは異なるのだと思う。有馬記念も祈るような気持ちだったがダメだった。しかし残念だったのは、2007年ファイナルレースと思って大勝負をした昨日の中京最終レースだった。まったくの人気薄、エムエスワールドとトールハンマーが買いたい馬券だった。この二頭から、多くの馬に流したり、この二頭の馬連、ワイドなどを勝負した。結果はトールハンマーが2着。エムエスワールドも差のない6着だったが、進路妨害を受けた結果だった。もしも、は競馬にはないが、もし進路妨害を受けなければおそらく勝つか上位に来ていたはず。300万馬券も決して夢だったわけではないのだ。一応、トールハンマーの複勝はゲットしたので、よしとするか。くやしいけど。クリスマスの高尚な話題がいつしか競馬の話になってしまったが、きょうはイブ。大昔の冬至のお祭りとも重なる。陰極まって陽転するのが冬至。冬至が目指すのは冬ではなくて夏なのだ。冬至から夏の道が始まっていく。人の心がいつでも遅れるのは、この原理をしらないからでもある。どん底がピークへの道の始まりであり、有頂天がどん底への道の始まりだと分かれば、ずいぶんと生活の仕方も変わって来よう。どん底で救い主が現れた、、ということもできる。なぜ、イエスが救い主なのかは、それは愛を解いたからなのだ。説いたではなく、解いたのがイエスなのだから、人が縛られなくなる道が始まった。しかしそれはどん底だから、もっとも縛られている時期にイエスはあらわれた、そしてこの2000年がそうだった。しかし人の子の時代をイエスは告げ、いずれ愛が時代を作ることを語ったと私は思っている。聖書の中でとにかくイエスが連続して語ってり、行ったことは、愛の原理による言動だけだった。これだけははっきりしている。だから本当に凄い人なのだ、イエスは。愛の原理が出てくるとまずいのは、教理の人だ。教理だとメシが食えるが、愛だと食えなくなる。本とうはそうではないのだが、自分の立場を守る劣等感から権威を保持する人には、そうはうつらない。この構造は今まさにピークに達しているが、イエスが戦ったものこそ、まさに現代ピークに達しているこの構造そのものだった。だから私はイエスは今でも生きていると思う。愛には永遠性があるからだ。そしてまさにイエスが求めた時代が始まろうとしている。
メリークリスマス。 栄光在天