長いプログラム

人生は唐突に色々なことも起こったりするが、それでいてきっちりと計算されたプログラムが働いている。その時その時から逃げない生き方は大切だが、長いプログラムの一貫としてながめることをしないと苦しくなる。二年前、原因不明のめまいが起きて、それがなんらかの悪意と関係している直感があったが、まもなく泥棒に入られてかなりの被害をおった。泥棒の悪意というか狙いを私はめまいや胸騒ぎで察していたわけだが、もうひとつの不思議な直感も同居した。泥棒に入られてめまいはする、過労からインフルエンザにかかる、なのに恐くて泥棒の入ったマンションには寝ていられない、、仕方なくホテル暮らしをするという散々な時期だったが、このことはいずれ良く出る、、という直感があった。負け惜しみと言ってしまえばそれだけだが、こういうことは偶然には起こらないと私はおもったのだ。何かを伝えようとしている、何かを教えようとしている天からの手紙であると感じた。そして確かにそれからの私の生活は変化した。住居をヒルズに移し、港区のマンションを閉じて仕事も内容も徐々に変わって行った。そして二年前ではまったく考えもしなかったような現状がある。それが本当にいいのか悪いのかは分からないが、人生は一連の長いプログラムを進行していることを強く感じる。吉も凶も裏表であり、吉と見える中に凶の種があり、凶と見える中に吉の種がある。すべての成功物語も、成功したその同じ原因によって失敗をしていくことになり、失敗の中の成功の鍵を見つけて成功していくことが大体のストーリーなのだ。こうした流れを見つめていくと、段々と吉も凶も同じ器の一様相に過ぎず、すべては吉に統合されていく大きなプログラムが誰にも与えられているのだと思う。すべてが吉に統合されるとは、すべては歓喜に統合されていく構造がこの世にはあるのだ。いや、この世のそれが構造なのだろう。しかし人間には大きな自由意志が与えられているから、人間が長いプログラムの存在を忘れて、今だけを切り取って、それを答えとしてしまうことが、凶なのだ。都合の良い今、取っておきたい今だけを吉となずけても、それは凶になっていく。プログラムを切断することが凶なのだから。幸せにこだわるのも不幸にこだわるのも同じ凶になる。つくしは一年中咲こうとはしない。時を知って、出番になったら美しく顔を出してくれる。時をとどめることは誰にもできない。なのに人は時を止めて大きなプログラムの存在を忘れていく。