満月近し

しかしこの数日は忙しかった。日記を書きたかったけど、どうしても時間がとれない。大したことやっているわけではないのに、なんでこんなに忙しいのだろう。時間がない病にかかっているのだと思う。これはもうかなり長い。いつでも締め切りに追われる仕事だから仕方ない面はあるのだが、ひとつの呼吸になってしまっているのだと思う。呼吸といえば、実は嬉しい話がある。兼ねてから西洋音楽の発声法だけが音楽ではない、と思っていた私だが、ちょっと小耳に挟んだ、息を吐くときに腹を膨らましていく、、、という一種の長息法をふとしたことから体得。体得と言っても本当に正しいかどうかは怪しいものだが、大きな声を45秒出していられることがわかったので、歌う際にはまず大丈夫。どんな長い息を必要とする歌でもこれで歌えるようになった。私の場合は披講なので、和歌を長く伸ばして歌うことに生きてくるはず。西洋流と和と、これほどまでに違いがあるとは。歩き方、走り方も、西洋は、というよりもすでに常識だが、手の動きと脚の動きは反対である。右手が前に出るとき、右足は後ろになる。歩くときもそうである。しかし日本の走り方は違って、右手が前の時には右足も前に、左手が前の時は左足も前にでるのだ。ためしにやって見るとわかるが、なんだか忍者になったような気分。そしてふしぎなのは、即効の動きというか、素早い動きがなんだか取れるような気がしてくる。実際はどうか判定はできないが、そんな気がする。効果を計ってみると意外におもしろい結果が出るのではないだろうか。こうした人間の基本動作への考えに差があることは、凄い違いである。価値観の違いはおろか、物理的な理解方法の差であり、世界感の違いにつながる。とくに基本中の基本である、声の出し方、歩き方の差異は驚くべきと言えるだろう。すぐにどちらが優れているという話にもって行くべきものではないが、日本文化を理解する意味でも、こうして観点は大切だと思う。おなかをふくらます発声法ではとてつもなく大きな声は出せないが、安定して、一定した音声をずっと続けることが可能で、そうした発声にはとても有利に出来ている。披講などでは、安定した音声が続く、という点は非常に重要。日本文化にはこの一定の継続性という点にも特徴があるのだろう。おなかを膨らませるというのは、おなかを膨らませようとせずに、そのままで維持し、背中の腰の部分を膨らませる、声をはきながら膨らんでいくイメージで声を出すのである。そうすると誰でもきっと声が続くようになると思う。それも驚くほど。関係ないが明日は満月。仲秋の名月である。前回の満月の晩に、狸の集会を見た私はその後、不思議な月の写真を撮ったので、今回ももしや、、、の期待から明日も月の写真に挑戦します。条件も同じにして、月が昇る前に買い物に行き、月が昇ったころ、かえって来る。そこでまた狸の集会が見られるかどうかが、第一のポイント。次に駐車場に車を停めて、後ろを振り返る。そして美しい月が出ているかどうかが第二のポイント。出ていたら月を写真に撮る。ここまでまったく先月と同じ。果たしてどんな写真が撮れるか楽しみ。前回の不思議写真のもっとも有力な説明は私の知人の深水氏の判断だった。おそらく、最近のカメラは感度をよく理解しているので、暗いと思ったらその分シャッターを押してもずっと開放しているから、その間に人はもう撮ったと思ってカメラを移動させてしまう、撮ったと思った人の意識と実際の露出の時間が異なるからでは、、。ということだった。どうやら月のエクトプラズムでも、まして狸の魔術のせいでもないらしい。とはいえ、明日は最挑戦。たのしみだな、雨、降らないでおくれ。