バラと粘土層

私はバラは粘土では育たないと思っていたが、そうではないらしい。ヒルズは全体が粘土層の土地だから心配していた。きょう、バラの専門家が訪れて問題ない、ということだった。ヒルズの広さを見て、まあ、5年がかりででしょうね。というようなことを言ったが、庭作りだけは急いでは確かにダメである。庭に限らず、文化的なことは急いではいけない。ゆっくりやると味が出てくる。農作業も同じだが、昨日はやや急いだ。畑に冬野菜の種をまき終えたと同時に大雨になった。危機一髪、これで今年の冬野菜は無事にスタンバイできた。昨日を逃すと、大雨の影響で耕運機が使えない。粘土質の土だから水分が多いと、お団子のようになってしまう。乾くまで待つのに、一週間はかかる。その間に雨が降ったらまた伸びてしまう。おとといは一日中良いお天気だったからいいが、昨日は朝から小雨。その合間をぬって残りの畑の作業を急いだ。これで完璧だが、お陰で体が痛む。一日と半かけて一人で約100坪の畑を整備し、種付けをした。大根200本、ほうれん草二列、カブ二列、小松菜6列。今回はこれで終了。あとキッチンガーデンにハーブを植えたらおしまいだが、こちらはまだミニトマトやきゅうりが出来ているので整地できないでいる。晴れた日にゆっくりやろう。関係ないが今夜のニューヨークの相場はどうなるだろう。今夜、あとニューヨークダウが53ドル以上上昇すると、何年も何年も抜けないで来た高値を抜けることになる。おそらく10年ぶりぐらいの出来事ではないだろうか。日本の株式が今日は大幅に上昇したので、抜けてくる可能性が高い。ニューヨークが高値をつけると世界的には安心感が広がるだろう。危なかった投資環境がまた前向きになってくるかもしれない。私が相場に関心が高いのは、人が自立し、独立して生きていくために、投資がこれからはある程度必要な気がするからだ。国も企業も、個人から奪うことを考えるだけで、これからは守ってくれなくなる。企業も好業績をあげ始めているが、それは個人を限界まで搾り取って得た高効率のおかげである。せめてそうした企業の成長を自分の利益に結びつけるためにも投資が必要なのだ。ただ投資はあんちょこな気持ちではまず失敗する。それなりに学び、捨ててもいいお金で始めなくてはダメ。そうこうしているうちに信念があれば上手になる。神も実は人間に投資している。この子は何を表現してくれるだろう、、この人は神のどういう部分をどう表現して楽しませてくれるだろう、、、、神にとっては自分の一部である人間が、その神性をどのようにあらわし、実現し、表現してくれるかが楽しみでならないのだと思う。神の喜びとは、人間に投資してその思いもつかぬ表現を楽しむことなのではないだろうか。ああ、あんなにしている、おお、こんなに素晴らしいことになった、、と、想像の喜びに包まれるているのかも。親もそうだろう。子供がどのように成長し、何を表現していくかが、一番の楽しみであり喜びなのだ。親や神の喜び創出のための投資が私たちの存在である。だから私たちは喜びを表現するとき、幸運となる。力が得られる。なのに多くの場合、わざわざ苦労して、私たちは苦しみや悲しみを表現してしまう。表面的には人生は確かに辛いと思う。死に向かう人間の運命が辛くないわけがない。しかし私たちには、その奥がある。辛いが嬉しい、辛いが幸せ、、、構造はそうなっている。辛さを受け入れると開いてくる扉がある。それを開けると、辛いがうれしい、つらいが楽しい、苦しいが幸せ、、、となる。自分に訪れる不幸や辛さを、なんで私が、どうして、、と言って受け入れられないと、その奥の扉に行き着けない。くらくて恐い道だと思っていたけど、そこを歩くうちに、おや、、と宝物の扉を発見するのが人生である。それには一度はくらくて恐くて不安な道にひとり入らねばならない時があるのだ。表面的な人生の苦しみ、悲しみで、自分の人生を捉えては損なのだ。相場も同じ。下げそうになって、誰もが危ない、、、と思ったところを底にしてあげていく。まだまだもっともっと、、、と誰もが思ったところを天井にして下がりだす。感情の真実は感情の真実でしかない。実際の人生は恐いと思った道を恐いと思いつつ歩み出したときに始まる。