夜の甘い香り

夏の間、結構長く咲き続ける花で、今度調べておきますが、まだ名前がわからない。その花がとても良い香りを周囲に漂わせている。昼間にはクロアゲハがなんぴきも舞い飛び、それは見事でした。写真をとろうとすると逃げるので複数の蝶が舞い飛ぶ姿は撮れなかったのは残念。明日は午前中に知人の0嬢がお子さんと秘書を連れてヒルズにやってくる。あの花の香りをかいでもらおう。昼ごはんを私がつくるのだが、暑かったらソーメンにする予定。薬味にみょうが、しょうが、ねぎ、シソ、ゴマ、海苔、でいいだろう。ソーメンというのは結構お子もいっぱい食べるときがあるから、多めにゆでて、あとはすでに下ごしらえしてある豚のしょうが焼きでいこう。外で食べるか、家の中にするかは、その時の気分次第。風がなければ外のほうが気持ちはいい。風というのは不思議で、風が激しいと外でやることのすべてをつまらなく感じさせる。風のある日の野点、風のある日の露天風呂、ひなたぼっこも、野外コンサートも、キャンプファイヤーも、もちろん花火も、風があると面白くない。かくれんぼや鬼ごっこ、缶けりだって、風があるとつまらなくなる。なぜなのだろう。きっと風に対して、身構えるからではないだろうか。よく聞こえない、髪が飛ぶ、目に何か入りそう、、ということでつい身構える。身構えると、人はくつろがない、そして何をしてもつまらなく、苦痛に感じ出すのだ。ひるがえって、身構えて生きるとそれだけ人生がつまらなくなることにもつながる。人に対して身構える場合、風は何にあたるのだろう。おそらく風は記憶ではないだろうか。記憶からくる条件反射的な対応の風が心に体に吹き荒れる。その時人はみがまえて楽しまなくなる。記憶ということは、人は過去とつながっていると身構えることにつながる。それは過去の苦しくいやな記憶であるとは限らない。楽しみを期待したときにも人は身構えるのだ。苦を流し、楽を流し、ひょうひょうと生きられたらどんなに愉快か。こじきは三日やったらやめられない、、役者にもそういうことわざがあったと思う。役者ばか、という言葉もある。なぜ、こじきや役者は3日やったらやめられなくなるのか、、、私はどちらも縁がないのでわからないが、おそらく、こじきは周囲が自分のことを汚らしく、遠巻きに見ていくことが愉快なのだと思う。スタイルを気にして、気苦労しながら、世間体をはばかりながら生きている人が、自分のことをさも汚いという目で見ていく。その時、本当に自由なものを感じるのかもしれない。こじきになってみると人がどんなにまわりやどうでもいいことばかりを気にして生きているのかが、分かってくるのだろう。役者も同じである。どんな役にもなりきってしまう。その時の演じる楽しさ、表現の楽しさは自分を捨てない限りできない。人にとって何が愉快かと言うと、それは自分を捨てることに尽きる。だから3日やったらもう元に戻れなくなるのだ。一度自分を捨てることで覚えてしまった自由は、人は生涯忘れない。振られるときに恋人の脚にすがりついた人、ショックのあまり道に倒れこんだ人、絶望のあまり声にならない叫びをあげた人、、、みな脈ありで有望。そういうときにさっさと自分を捨ててしまい、それから着地すると、大体人生は面白くなります。ああ、退屈、、と退屈をもてあます人は、自身が退屈というのに過ぎない。何も捨てたことがない人が人生に退屈するのです。