来年になるとわかること

このところ日本の株式が売られ気味。ある程度は予測がついたが、あまりに露骨なやりかたに唖然。私は人気株が昔から嫌いだからソフトバンクは持ったことがない。しかし持っている人はいま気の毒だと思う。検察当局がどこかの新興会社にまた聞き取り捜査に入る、、、というまことしやかなうわさが流れた。それがもちろんソフトバンクだったということではないのだが、市場は極端に反応してとくにソフトバンクが売られた。なぜかというと、外資の一社が、ソフトバンクの予想株価を900円に訂正したためだ。2500円ぐらいつけていた株価に対して、900円をつけるとは、ここが危ないといっているのも同じになるのではないだろうか。もちろん根拠のない売りたたきの狙いである。ライブドアから始まって、村上ファンドをつぶし、信用市場を壊滅させて、何が狙いだったのかは、来年になるとわかると思う。来年、春に会計法が変わって、株式交換による買収ができるようになる。すると大きい資本をもつ外資が日本の企業を飲み込みやすくなるのだ。わたしはその準備がすでに始まっていると思う。現在の株式の停滞は閑散を誘って、すこしでも多くの株を集めるのに好都合だ。売りたい人だけを作るのが今の株式市場の使命にすら見える。日本の優良企業は本当に外国資本に乗っ取られる時代がくると思う。政治家もそのための準備をしており、日本の個人投資家から株を巻き上げるために色々な方策を打っているように見えてしまう。自由になる株というのは意外に少ないもので、個人投資家から集めるのが一番なのだ。個人投資家は大体は危ない信用取引だから、基幹となる企業の株をあの手この手で値下がりさせれば、信用の原資が減るため、株を売らざるを得なくなる。そうした基幹の起業の代表が昨年はライブドアであり、いまはソフトバンクなのだ。そこをたたけば、個人投資家は苦しくなって他の株も売りに出す。蛇の道はヘビというが、本当にうまく出来ている。私がなぜ心情的にライブドアといい、村上ファンドといい、今回のソフトバンクの急落といい、そういうことに同情的かと言うと、裏にそうした計算が働いており、社会正義の問題とは本当は関係ないことを感じるからである。社会正義をまとってもっと凄いたくらみがあることに気付くと、力学が見えてくる。日本はとくにそういう構造を昔からしていて、戦争を推し進める流れを作っていった基には海外の手がかなり内部に入っていたと思う。こうして日本はやがてすべてをとられる運命があるのかもしれない。しかし本当に日本の強さはそれから出てくると思う。それは文化の強さであり、人のよい、普通の日本人の良い面がもっと表面にやっと出てこれる時代が来るからだ。明治以降、本当の日本人らしいやさしさや良識が上位に上がることはあまりなかった。海外と裏で手を組み、日本人を苦しめ、この国をダメにして、そして威張ってきたのが日本の政治の根本だった気がする。もちろんなかには善意の政治家もたくさんいたけど、結局彼らの考えは最後には上位に行きつけなかった。けっきょく、この世には力を求める人と、自己実現を求めるひととがいるのだ。そして両者は相容れない。私には本当にどちらの面も強くあるからそれが分かる。力というのは確かに魅力がある。しかしそれは土台が弱いのだ。なぜなら本質ではなく、保証としての安心だからである。不安とコンプレックスに権力は支えられる。不安とコンプレックスがないところに権力は生じない。自己実現はそうではない。どんなに弱く見えても、それは本物の強さである。強さを証明するために弱い人を作らない、強さを証明する必要性がない。よき時代は、人が自己実現に向かい出すことを応援し、意味づけ、価値と評価を与える社会でなくてはならない。しかし子供の頃からオリンピックなど、強いものを美化しそれを求める心理を一般化して、この世を権力の競争場にかきたてる仕組みはいたるところにある。しかし人間が本当に求めるものは違うのだ。なぜ自分として生まれ、自分として行き、死んでいき、どこかに消えていく際に、それを由とする充実感は競争からは得られない。不安と保証をもとめて生きていくと、喜びがなく、不満となり、他者の不幸を対比させることでの安心感に行き着く。コンプレックスの解消に必要なことは、自分が満足し、幸せになることと実は違うのだ。人が不幸でなければ実はコンプレックスは解消しない。こういう人が競争に勝ってきたのが、明治以降の時代の特徴だと私は思っている。そういう人には競馬にでも狂って、財産を失ってもらいたい。裸の自分に直面し、もう一度やり直すことでそれまで得られなかったものが得られるようになるかもしれない。人を巻き込んで自分の安心を作れなくなる状況に、神は人を追いやることが、愛であることがある。しかし私も権力は好きである。それはコンプレックスの道から自分を培ってきたからだろう。しかし、異性を好きになって、ベッドを共にする際、そこに権力の匂いが出てきたら、もう愛はそこに住めない。深く恋をすると権力の無意味さが分かってくる。時代の権力者はだから恋をしたことがない人だというのは、間違いのない事実なのだ。そしてそのコンプレックスほど人を不安にさせるものはないのではないだろうか。ロミオとジュリエットの中に、自分が社会的に強いというにおいが、一文たりとも出てくるだろうか。純愛文学として大好きな、貧しき人々、の中も同様だ。人はだから恋をするといいのだ。恋ができない世代がつづくと人間はダメになる。自己実現ではなくて、権力の道を人が歩みだすようになるからである。