浅草 寿司 一新

ランチをとりながらテレビを見てたら、すし屋の特集をやっていた。その中にでてきたのが浅草にある一新という寿司屋。一度行ってみたいと思った。アナゴか何かを握る直前に笹の葉に乗せて炭火で仕上げの焼を入れる。笹の香りをあなごにつけるらしいのだが、それを見ていたら思わず涙がでそうになったよ。料理が愛情というのは本当で、子育てではとにかく料理を通して子供に愛を伝えるのが間違いない。複雑な情感、デリケートな感性、この世の喜び、、、これらの大切な部分は料理によって伝えられる。食べ物に愛をこめてもらったことがない人は深い愛をしらない。深いセンスもわからない。これは偏見ではなくて、本当にそうだと思う。誰が最後のにおい付けのために、笹の葉の上でもう一度あなごを焼いて差し出すだろう。そうしたものを食べた体験は味として記憶される。笹で焼いた現場を見て無くても、味として記憶される。自分のためにどこか見えないところでそうした最後の仕上げをした味付けをしてくれた人がいる、、、自分はそうしたデリケートなものを食べた。そこからの愛のサインを体で受け止めている、、、こうしたものが本当にその人を支える力になってくれるのが人生でもある。愛されていない人はやはりもろい。大切なところでもろさが出る。現代人の特徴でもある。昔円谷選手が自殺したおり、遺書に食べ物のをことを連ねた。お父様、あの時食べた、何々は、とてもおいしゅうございました、、、お母様、あのときの何々、大変おいしゅうございました。お姉さま、、、あの時の、、
と、食べた感動で終始する遺言だが、私はあれ以上の辞世の句をみたことがない。私の家には捨て犬が住み着いているが、時折り人間が見てもおいしいものをあげる、寒い晩には多少暖めてあげると、もちろん喜ぶ。それはそうだろうが、面白いのはその後の犬の表情である。とても誇り高い表情をするのだ。うまくはいえないが、自分はこんなに良いものを食べてる犬なのだ、、という誇りを見せる。そういうときには必ずそういう表情になる。犬にとっても、自分がそれだけ愛されていて、立派な扱いを受けたということは、犬のアイデンティティになっているのだと思う。もちろん、お金持ちの屋敷の飼い犬は、人間が食べる以上の良い肉を食べてるというような話も聞くが、そうではなく、寒い日には多少暖めてあげる、とか、そういう気遣われている、ということが野生の捨て犬には嬉しいのだと思う。こちらは別にどうということもない気持ちでやったことも、犬にとっては嬉しいことだったと知ると、なんだか妙な気持ちになる。だから人には思いを尽くしてあげることだ。もちろん余裕があるときだけでかまわない。しかしかけた思いはこちらが考えている以上に人を救っていく。人に思いをかければ、またそのことが自身をも救うことになる。