自分を楽しむ人
さっきテレビでかりやざき省吾氏が出ていた。以前から圧倒的な花の素晴らしさに驚きとあこがれをいだいていたが、テレビで見てても楽しかった。とても個性的な人で自分を楽しんでいる。自分を楽しむ人と、自分を苦しむ人がこの世にはいる。省吾氏は芸術家だし、世間の評価も高いから、そうした面が出やすい気もするけど、とにかく自分を楽しんでいる人は見ているだけでこちらまでいい気分になる。私はあまり人の生き方に影響されることは無いほうだが、省吾氏にはうらやましいものを感じたよ。私もああやって生きたいとおもった。私は結構自由に生きているほうかもしれないけど、もっと解放されなくてはダメだな、と感じた。まだ結果主義的なところが強く、プロセスをもっと楽しむようにしたいと感じた。きょうはタンザニア大使館で大使はじめ皇族のかたもご臨席の場で恥知らずにも披講をしてきた。披講というのは、完全アカペラなので、その緊張感は結構凄いものがある。なんとかできたのは、偶然もあるが誠意をもって歌うことを心がけていたからだと思う。誠意を向けて歌うことを楽しんでいる感覚。もちろん、それが喜びでも、怒りでも、嘆きでもいい、何かうそでない思いの表現であるとき、人は上がらないものだ。あがって困る人は人間的とも言えるが、思いが欠けているとも言える。誰の前でもあがらずにそれなりの立ち振る舞いができるのは、図図しい人ではなく、誠意を持っているときに可能になる。思いがあるときに人はあがるよりも使命を優先させることができる。これはあらゆる強迫観念症に共通している。脅迫観念症は誠意があれば治る症状なのだ。私は青年期に対人恐怖症でひどく悩み、自分にも未来にも失望したが、何と言うことはない、誠意が無かっただけなのだということを、ある事件を通して理解した。偶然に出会った昔の友人、なつかしくて色々話をするうちに段々と苦痛になってきた私、、、逃げるように別れたとき、ふっとなぜか私は後ろを振り向いた。すると別れた友人の背中がなんだかさびしそうに見えたのだ。それはそうだろう、久々に出会って、色々話をしたかっただろうに、対人恐怖の私は自分を守るために逃げようとしたのだから。こんなバカなことがあってはいけない、と私はそのときに思った。自分が苦しいとか、苦しくないとかは、もはや関係がない、苦しかろうが、相手の思いに答えてあげれないなんて、バカではないか、と私は思ったのだ。以来、私は人に会うのがどんなに苦しかろうとも、会うべきときには会うようにした。自分がおかしくないか、と自分を観察しているときはあいかわらず苦しかったが、そんなことより、誠意をもって対応しようとすると、苦しみはうそのように消えていった。この経験で私は人は幸福なんて求める必要のないことを学んだ。自分が苦しいとか、苦しくないとかと言う問題は本当はあまり大きな問題ではない、ということを理解することが本当に大切だと思う。人は言葉で語り合う以上に、背後のもの同士が実は語り合っている。そんなイメージでとった写真。だめだ、この程度じゃかりやざき省吾氏のようにはなれないな。