歌の神様
私は以前から、最後には歌の神様がお出ましにならない限り、この世は治まらないと思っている。今でもまったくその気持ちに変わりはない。なぜ歌か。歌は振動である。振動が言葉の壁を越え、双方に和を共鳴させたとき、奇跡がおきるのだ。簡単な理屈だ。残念なことに、ベルカント唱法においては純音が大切で、倍音が含まれることを非常に嫌う。バカな発想である。倍音があるから骨まで振動し、共鳴現象を起こすのに。その音楽は人と人、人と動物、人と植物、人と霊、人と自然を一体化させる力を持つ。私がなぜ披講に夢中になるのかは、この根源の音を母体にした音楽だからである。ホーミーもそうだろう。ただ披講には言葉が伴うのでその共鳴現象は想いが主体となる、想いと祈り、その共鳴により、人の意識は変革する。これが最大の奇跡なのだ。披講の復活には無限の可能性があると思うのはそのためである。日本語の特殊性、偉大さがなせる業でもある。もちろん他の言葉も歌となれば同じだが、純音ではどうしても理屈の壁をこえにくいものがある。