桃の節句
お雛様の日。私は子供時代、姉が3人いたので男の私も一緒にお雛様をした記憶がある。女の子のお祭り、というのではないと思っていた。確かに秀真伝には、結婚の祝いとして雛の日が語られている。秀真伝の第一章を丸暗記したことがある。また聖書やひふみ神示の一部など、丸暗記した時代があった。聖典のようなものには、きっと何か不思議な力があるだろう、、、という青年特有の安易な発想であった。聖書は結構長い期間、それに触れる環境だったため、色々な箇所をかなり記憶した。またひふみ神示は、暗記して読み上げていくと、不思議な喜びが出てくることを感じた。私ははっきり言って、宗教のことはあまり知らないし、興味がない。ただ読んだときの印象である。聖書もひふみも、読んでいるうちに理由のない涙がよく出てきた、聖書では、やはりイエスの言葉である。泣かせるような内容ではないのにもかかわらず、涙がでる箇所が多いのだ。イエスは言った、私にどうして欲しいのか。男は言った、主よ、見えるようになることです、、、、、聖書の一節だが、涙が出てくる。理由はわからない。主よ、税金は払ったほうがよいでしょうか。するとイエスは言った。コインを見せなさい。この肖像は誰のものか。カエサルです。では、カエサルのものはカエサルに神のものは神に返しなさい、、、涙が出てくる。研ぎ澄まされた智の見事さにたいしてである。知と情は普通は住処を別にするが、とぎすまされたものになると一体となる。イエスの言葉はその領域にあることは間違いない。イエスの十字架上の言葉も同様である。一人の犯罪人はイエスをののしった。神なら十字架から降りて自分を救え、と。もう一人の犯罪者はイエスに言った。あなたはなにも悪いことをしていないのに十字架にかけられた、わたしが十字架にかけられるのは仕方ないことですが、もし私のことを覚えていらしたら、主よ、思い出してください。イエスはその男に言われた。今宵、あなたは私とともにパラダイスにいるであろう、、、、なぜか涙が出てくる。イエスは本物の愛の人だったのである。ひふみもやはりそうである。涙が止まらなくなることがある。理由がないのだ。私の誤解だとは思うが、私が聖書やひふみを丸暗記するぐらい読んで感じたことは、以来、色々なことの答えがすぐにでてくるようになったということである。人生相談をやらせていただいているが、普通に考えたら色々な複雑な要素が絡んでいて、すぐに答えがだせるようなものではないのだが、何かをアドバイスさしあげなくてはならない。それがあっているかどうかはわからないものの、私には迷いない答えがさっと出てくる。なんでも答えが先にわかってしまう。もちろんあたっているのかどうかははなはな不明だが、迷いがなく、答えがわかるというのは、ありがたい。わたしはこれは聖書や一二三を通して高度のエッセンスに触れられたせいなのではないかという気がする。今は披講に一生懸命なわけだが、和歌を披講すると、間違いなく場が清まる。場の空気がさーっと変わるのである。清潔になる。きょうはアネモネという雑誌の取材で編集長の井上氏がわざわざ東京からいらして色色な話を聞いてくださった。その関でも披講の話がでたので、では、どんな具合で場が変わるかをお目にかけます、と実践したのだが、喜んでくださった。これは披講の力なのだが、おそらくこの世には色々な生き物がいるのだと思う。人はひとりで生きているように見えて、色々なもの、霊的なものも含めて大勢でいきているのかもしれない。披講するとそうした者たちが、聞き入ってくれる。ざわざわした空気がなくなり、静まり返る、要するに、見えないがそこにいる人たちがじっと聞いていてくれてるのだろう。和歌で色々な鎮魂ができるのは本当だと思う。またお蔭様といわれるさまざまな妖精勢との和解と協力に欠かせないツールになっていくと思う。彼らに働きかけられる何かを持っているかどうかは、今後人間の重要な課題になっていくのではないだろうか。