2003年06月27日(金)曇り

なんだか一年ももう半分が終わりではないの。早いよね。時の流れは歳がいくほど速くなるとはいうけど、確かに私の父は80代のとき、一年なんて2週間だよ。と言っていたっけ。江戸時代の養生書には、人間は歳をとったら一日を二週間だと思って暮らすべし、と書いてある。なるほど、と私は思ったよ。歳をとるにしたがって時間を長くしていけば、人間は何歳でも生きられるということなんだよね。一時間を数日にしてしまえばいいということ。普通歳をとるにしたがって、これまでの体験が記憶にあるため、リアルの体験を観念の体験に変質させてしまうことが、歳がいくにしたがって時間が早くなるという正体。そこでその逆をいけばいいわけです。一秒一秒を体験している意識でいきれば、たしかに一日を二週間にすることはできるはずだ。本来、歳をとることで生活の心配も、人にどう見られるという不安も、出世したいという野心も、すでに克服というか、片をつけていなくてはいけないし、大体は片をつけているはず。となると、本当は目の前の一秒一秒をリアルに体験することは子供時代のようにできるはずなんです。ただこれまでの不安な呼吸や習慣性と生きてきたことで培ったなんらかの信仰があるため、本来安心な境地になっていなくてはならないにも関わらず、観念で自分と周囲との関係を捉えがちなため、その恩恵にあずかれないのでしょう。これはもったいない話。いや、人生はちゃんとうまくできてるのかもしれない。老人になったら一日を二週間どころか、二年ぐらいにしてしまえばいいのだ。こういうことを言うと、そうですね、感動をもって生きることですね、、、的に言う人が多いが、ちょっと違うと思う。感動を求めるのは本質的ではなく、本質はリアルになりきる、目の前の体験に没入すること。誰かが知ったかぶりで押し付けた価値観にとらわれることほどつまらないことはない。普通老人になるとそういうことにごまかされないもので、没入しやすい条件は老人にはあるのですから。だから、残された時間が少なく感じるとどころか、一日を二年、一秒を一生まで伸ばせることは論理的に可能なはずなんです。そうなると不死になるね。間違いなく人生はそういう仕組みになってると思うよ。江戸時代の貝原はそのことを知っていたんだろうね。これは若い人にはできないことだと思う。欲もあるし焦りもある、今なんか見てられるかい、、、てなもんでしょうから。しかしひるがえって今自分は一日をどのくらいの長さで生きてるだろう。時の流れを早く感じるのだから、やはり短いのだろう。時のプレゼントは考えると恐いですね。あれは人によってちがうんだから。ああ、100歳まで生きたい、、、とは考える人は多いでしょうが、一年が二週間だったら、どんなものでしょう。生き方の原則で大事なのは、国王大臣に近づかず、、、なんだよね。金力、権力、名誉欲、に取り付かれると、時間がなくなる、というより時間が短くなるわけです。大切なのはもっと、もっとの未来だから、リアルは遠のく宿命にあるわけで、出世すればするほど、偉くなろうとすればするほど、時間が短くなっていってるんだね。何らかの力に取り付かれると、人間は損をしているということなんです。私も力的なことが本当は好きな人間だから、これは心しなくてはいけない。人知れず野に咲く花が美しいのは、そこに永遠があるんでしょうね。見られるためにいけられた花も美しいけど、永遠は感じられない。いつ枯れるか心配になるし。誰にも見られない野の花は、もの凄い時間を体験してるんだろうね。