2002年12月17日(火)晴れ
深夜の雷と雨は凄かった。雷が落ちるたびに家の中はフラッシュをたいたように浮かび上がって、光るのと同時に地響きがして、あれは相当近い感じです。一秒で330メートルだとすると、光と同時だから、100メートル以内です。朝になって落雷現場をさがしたが、見つからなかった。デッキのいすも何事も無かったように配置されていて、嵐そのものが無かったみたいで、なんだか拍子抜けです。昨夜はあんなに凄かったのに。天候の移り変わりって、面白いです。ベートーベンの田園交響曲でも、一章が田園地帯ののどけさ、二章が小川のせせらぎ、三章が嵐、四章が嵐の後の森、、、というような、天候の変化があって、楽しめるわけです。私はこの曲が本当に好きで、中学生の時には一日に何回も聞いていて、皆からべトキチ君、と呼ばれたぐらい。ドイツのハイリゲンシュッタットという美しい森に魅せられてベートーベンはこの曲を作ったのだけど、耳が聞こえなくなって将来に悲観して自殺しようとしたのを、美しい森が癒してくれたのです。美しい森には本当にそういう力があります。やはり自殺覚悟で森に死に場所を求めてやってきたと思える老婆が、森に暮らしていくうちに、みるみる元気になっていったのを、私は実際に目にしたことがあります。5月の連休になって、その老婆の別荘の前に、青い車が止まっているのをみて、私は人事ながら嫌な予感がしたのですが、やはり、老婆は息子夫妻の車に乗せられて、東京に帰っていきました。最後まで嫌がったらしいのですが、世間体を気にする息子達が、無理やり連れ戻したらしいのです。はじめはろう人形に見えた老婆が、連休の頃には、まるで可愛いおばあちゃんになっていた、その奇跡を目の当たりにして、本来なら、息子達も、元気になったおばあちゃんを見て、なんだ、森が癒しているんだ、、、という事実を認めて、自分達の非にきずかなくてはならなかったのです。本当に人は目の前の事実をみていないことが多いと思います。自分の思い込みを見たいのです。森は事実の世界です。ただし、そこをただ通り過ぎる人にはわからないのです。そこに踏みとどまり、その恵みをしっかり受け止めない限り、わからない場所なのです。できたら、一年、無理なら半年、せめて一季節、森の中で生活したなら、きっと、ほとんどの人の人生観は変わります。何が豊かさなのかの、感覚が違ってくるとおもうんですね。実際、美しい森の中で、気の合う仲間や、恋人、家族と、もし一年暮らすことができたら、こんなに楽しいことは、いくらお金を積んでも他にはできないと思うくらい、ではないでしょうか。ソローの森の生活は有名ですが、あの人も、実際は一年ぐらいしかいなかったんですよね。確か。しかし、その一年のインパクトがあまりに決定的だったと思うんです。美しい森の奥の、清水が湧き出ている近くに、植物のつたや草でできた最高に簡素な家を作り、近くの小川でつりをして、ちいさな畑から野菜を得て、せめてひと夏を愛する人と暮らせたら、まず生涯最高の夏となるのは確実でしょうね。こんな簡単なことがなぜできないのか、、、ビルを建てるよりもずっとかんたんなのに。そうやって考えてみると面白いですね。ただ、やはり都会の雑踏が好きだと言う人も当然いるわけで、それはそれでもちろんいいのです。ただ、どちらの方が得か、、、と考えたとしても、すでに逆転しているのが現代だと思います。都市部の生活コストと消耗性の存在は、すでに大変リスキーになっていて、ここからは本当の天才性も、アイデアも、今後は出ににくくなり、かえって損ないき方に逆転し始めている気がするけど、やはりそんなことはないのかしら、、結局は好き好きが大切なのかもしれませんね。