2002年10月09日(水)曇り
秋の長雨というけど、はっきりしない天気が続いています。お陰でまだ冬野菜の準備ができず、完全にスタートロスの状態。スカッと晴れないと、耕運機で土を起しても、粘土質のため、固まってしまい、畑にならないんです。明日は天気らしいけど、土が乾いてくれるかどうかです。明日できないと、今度はしばらく東京で仕事があるので本当に心配。虫の鳴き声も段々と細ってきています。秋が深まっていますね。お米の出来具合は良かったです。初めてのお米を二日前にいただきました。腰があって、しっかりした味でした。買ったお米より、断然おいしいんです。毎年そう思うのですが、なぜなんだろう。下手なにわか農業で作ったお米が、買ったお米よりもずっとおいしいには。野菜もそうですし。なにか農業自体のやりかたにやはり問題があるんでしょうね。例えば、にんじんが甘くておいしい、という感覚は最近では少ないと思うけど、自分で作ると、実際本当に甘くておいしいんです。ほうれん草に至っては、売っているものはまるで違う食べ物という感じを受けるほど。年配の方に自作のほうれん草を差し上げたとき、ああ、昔のほうれん草の味がする、、、といって喜んでくれました。味がいつからかかわったんですよね、きっと。私も子供の時、お母さん、この卵腐っている、、、といったら、今朝買ったばかりだから、そんなわけがない、といわれたことがありました。確かにくさっていたのではなかったのですが、お母さんは、卵を近くのスーパーで買ったもので、それまでは千葉から毎朝電車で売りにくるおばさんから買ってたものとの違いだったわけです。しかし、子供の舌の方が、敏感だったということでもあるんでしょうね。何が毒か、わかるんですよ、きっと。ひふみ神示という本には、やがて人類は毒をたべることになる、ということが書かれていて、梅干を大切に、と書き添えてあるんです。もう50年以上前の時代のものなのに、そう予測していたんですね。梅干やラッキョウが体から毒素を分解したり排出する特効薬的な力があるらしいのですが、もっと凄いのは、それでも毒のほうが強くてどうにもならなくなるから、食べ物を一度神にささげろ、というのです。一度ささげて、お下がりとしていただければ、無事に済むというんです。それは毒であれ、一度神様のもとにいって、祝福されて再び人に与えられる、ということで、安心なものになるという、確かに理にかなっているんです。一度何でもささげるという意識になれば、すべてただで与えられたという、感謝の気持ちがでてくるわけで、かえって生命力が高まるわけです。命も同じなんでしょうね。自分の命だ、とおもって大切にするのはいいのですが、果たして、本当にそれで大切にできるか、という問題があるわけです。命も与えられたもの、という考えにたったら、感謝するし、不平はなくなり、この命を、では何に生かすか、という観点で見出すことになるわけです。捨ててこそ浮かぶ瀬もある、ということですね。与えられた命、生かされている命、、、。苦しいときにはそのことがわかるんです。