2002年08月30日(金)晴れ
今日も夏らしい一日でした。先週が寒かったので、もう夏がおえちゃうのかな、と一抹の寂しさがあったので、なんだかホットした気分。しかし、この暑い中、4時間も草刈をしてしまった。滝のような汗をかいて、さすがにこたえました。草刈機でする草刈はエンジン音でいやになりますが、手でする草取りは、これははまる人が時々います。草取り瞑想法ができてもおかしくない、そんな感じになるのでしょうか。よくマラソンが瞑想に似ている聞くけど、草取りも同じようです。草を手でとると、大地に体を近づけるわけだから、エントロピーはアース作用によって低くなるだろうし、高度な瞑想状態が出現したとしてもおかしくはありません。実際、そんな感じに確かになります。私は昔から瞑想がとにかく嫌いで、よくすすめられてやったのですが、どうしても嫌いだったんです。それが、いつからでしょうか、2年ほど前からか、なぜか瞑想がしたくなり、してみると、やっぱりいいんですね。何がいいかはよくわからないのですが、瞑想はやろうとしてやっても、せいぜい変なところに行って、何もわかってないのにわかったような気分になる、不健全な沈黙で終わりやすいのですが、このところは非常に気持ちがよいのです。快適というのは、大体はやりたくなりますので、今はまったく無理しないで瞑想ができ、好きになりました。私の瞑想なんて、まったく本格的なものではありませんが、ただ音がきれいになったり、空気の香りがよくわかったり、そんなことがとても嬉しいんです。人間って、ただ生きているだけで幸せなんですよね。虫の音が澄み切って入ってくるだけで、十分に幸せなんです。しかしそれも、一日中聞いていたとしたら、やはりつまらなくなるのかもしれませんね。おなかはすくし、トイレにも行きたくなるし、仕事もあるし、約束もあるわけです。ひとつのものに固着してそこに真実を探ろうとするおろかなことだけは、私達はやってはダメですね。大体、真実を探ろうとすることで、せっかくの今の自分と時を、インチキなものに設定してしまうわけですから。真実を追究しているうちは、真実は得られないということになるわけですよね。関係ないですが、やっぱり森田療法って凄いと思うな。事実唯信って、よく使うんです。真実を知りたいとか、覚醒したいとか、そういうことを言うと、必ずしかられる、そういう神経症の治療法なんです。さすが山羊座の森田博士が編み出しただけありますね。山羊座は実質的と言われますから。だから森田療法の先生も、人を見るとき、その人の言う言葉ではなくて、行動の方を重視してみるわけです。私が20代の時、森田療法のカルチャースクールに行き、帰りに先生を囲んで喫茶店に行くのですが、その際に、私は何も話さなかったのに、いつも、先生は色々な質問に対し、それはこの人に聞きなさい、といつも私を持ち上げてくれたんです。中には、精神科の先生なんかもいる大人達なのに。今思えば、私が一番よく気がついたからだと思うんです。エレベーターを出る時も最後までオープンを押さえたり、何かにつけて、機転をきかして、みんなのために動いたからだと思います。森田療法では、そうなると、全治となってしまうんです。それも凄い話ですが、本当なんですね。自分の悩みにとらわれずに、今のやるべきことに気をつかっているから、完治となるのです。森田正馬にいたっては、神経症で苦しんでいる人に、どうだ、状態は。と尋ね、患者がよくありません、というと、怒ったんですね。君は僕が尋ねているのに、気を使って、たとえ悪くても、良くなったといえないのか、、、、となるわけです。そこら辺が私が本当に森田療法が好きなところなんです。そこで患者は今度は、森田先生を怒らせまいとして、どうですか、と聞かれると、うそをついて、おかげさまで、良くなっています。となるわけです。すると森田先生は、君は完治した、となるんです。まるでそれではインチキではないかと人は思うでしょうが、そうなると本当にその人は治っていくんです。どんなに苦しくても、相手を思ってうそをつく、そのとき、自分のこだわりとは違うレベルでその人は生きていることとなり、神経症のこだわりを脱するわけなんですね。あまりに単純すぎて、今の頭の良い人ばかりの時代には人気はないのですが、実はの凄い内容なんです。神経症の方は、私の日記を読んで、お陰さまで完治しました、とうそでもいってくれれば、必ず治ります、なんてね。