2002年07月28日(日)晴れ

思ったとおり、新馬券は高額配当の嵐です。残念ながらまだいい目はみておらず、どうも勘は狂いがち。勝負運はやはり火星というのは、これまでの自分の経験から確実で、今は火星がしし座なので、いまひとつ私の場合はツキがないみたいです。しかしそれでも、一点だけ買った馬券で万馬券をとったのですが、土日の全額の負け分には及びませんでした。他のレースは何点も馬券を買ってたのに、そのレースだけはたった一点。しかも残念なのは、電話投票で、買う金額を、一桁少なくプッシュし、一度切ってからもう一度買おうとしたら、このレースは締め切りました、、、ということで、本当に残念だった。本当は10倍儲けてたのに。そしたら全部の負けをはるかにしのぐ利益が、、、、、と、競馬はいつでも後悔するところがまた面白いのですが、やはり面白くないわけです。気分を変えて歌でも歌おうとピアノに向かい、いつものように私は賛美歌や聖歌を歌うのですが、そして思ったのは、いわしの頭も信心、ということ。世界はこれまでも今も、宗教間での争いが絶えません。しかし考えてみれば、どの神を信じるかなんて、どうだって良いということなんです。大切なのは、どの神ではなく、どういう信仰か、ということなんです。本物の信仰心と、そうじゃない信仰心が、やはりあるのです。哲学のことを、哲学する、という表現をよく使うのですが、固定された学問があるのではなく、哲学する態度が大切ということで、これは信仰にも言えるわけです。信仰する、ということ。どの神が、という時点で捉えると、これは必ず争いとなりますが、信仰という観点にたつと、争いは起こりようがないのです。私は、決してキリスト教徒ではないのですが、おそらく一般のキリスト者以上に信仰心を持っているかもしれません。賛美歌を歌うとき、間違いなく、私は信仰しているのですから。しかし、それはキリストや何がしかの宗教を信じているとかいうこととは、ぜんぜん違うのです。歌うことで、何かに、誰かに、恋するように、信仰心がでてくるんです。信仰心は恋に似た感情だと言うけれど、本当にそうかもしれませんね。それは宗教を超えているんです。大切なのは宗教ではなくて、信仰心なんですよ。正しい信仰心というのは、あると思うんです。信仰心に重点を置けば、宗教観の争いは、即座に意味がなくなるんです。当然、宗教戦争はなくなります。あれは、本当の信仰をもたない宗教者が起すものなんですね。世界中の色々な宗教の音楽をなんだか歌いたい気分。そういう集まりを作って、歌ったらきっとおもしろいでしょうね。キリストを通してイスラムを信仰する、コーランを歌ってキリストを思う、最終的に歌うことで、宗教を超えて信仰そのものになりきっていく、、、なんと素晴らしいことではありませんか。