2002年07月15日(月)曇り
四日間も風の激しい日が続いています。そうでなくても強風の吹き付けやすい私の家は、風で大地が揺れるような感覚。その迫力は凄いです。風が強いと、外での作業がつまらなくなるのはなぜなのかしら。おそらく、風の音を気にしたり、風に立ち向かう姿勢をとらなくてはならないため、色々な情報を遮断してしまうからでしょう。よくパソコンに長い間向かっているとストレスがたまるといいますが、それは実は情報が少なすぎて起こるそうなんです。一見情報の波の中にいるように錯覚しますが、単一画面の極一部の部分の情報でしかなく、全体的な情報とは異なるためらしいんです。たとえば、自然の中にいると、色々な音や、空気の臭いや、風の具合や、光や、木々、みどり、と、さまざまな情報に取り囲まれて、私達は即座にそれを高度なレベルで判断しているのです。それに較べると、パソコンでは、圧倒的に情報不足らしいのです。パソコン疲れが情報不足で起こるとは、面白いですよね。これは人生にもいえるかもしれません。良いことの連続では、きっと面白くなくなるのかもしれませんし、生活にメリハリがなくなるでしょうね。良いとき、悪いときの振幅の中で、良いからといって浮かれず、悪いからと言ってあきらめず、その振幅の中に自分の人生もあるのだと思えば、苦楽あるも日々これ吉日、ということになるのでしょうが、やはり難しいことではありますよね。ならば、悪いときは徹底的に嘆き、良いときは徹底的に喜ぶ、という生き方もでてくるわけです。しかし、これは私の経験ですが、青年期に非常に自分を不幸に感じたことがあり、毎晩なげいていたのですが、ある日、もう嘆くことや、不幸そのものに、あきてしまった、そういう気持ちになったんです。不幸や絶望に、人間はあきるときがあるんですね。これは面白い感覚でした。以来、何か自分を不幸に思って愚痴っている人を見ると、本当には同情できないようになったのも事実です。ああ、まだあきてないんだな、まだ、やっていくつもりだな、、、と。要するに、不幸に身をおくというのも、実はわがままということなんですね。自分が不幸だと思えば、周囲を悪くするのも簡単ですし、意外に使える手なんです。しかしというか、だからというか、不幸にも人間はあきてくるんです。結局幸不幸は自分で決めていくんですね。戦争で家を焼かれたことは不幸ではあるものの、そのことを今でも不幸と思っているご老人もいれば、単なる人生の体験として昇華している人も大勢いるわけです。幸不幸など、最初からあるいはないのかも。昼と夜とはあんなに違いがあるのに、しかもそれが毎日繰り返されているのに、だれも夜だから不幸とはいいません。天体は色々なことを私達に教えてくれているわけです。