2001年11月05日(月)曇り
今日も東京です。これから能を観にでかけます。能は必ず眠くなりますが、寝息が心配。一緒に行く会社の人に、寝たら起こしてと言っておきました。しかし、能を見ながらというより聞きながら眠ることほど気持ちのいいものもないです。山手線なんかもほんの少し寝ただけで、すっきりすることがありますが、能もそうです。能は幽界からすでにいない人が昔の話をしに訪れる想定ですから、それを見ている私たちも、一瞬幽界の気に触れるわけで、これは眠くなって当然です。幽界から霊が訪れ、その昔に達成できなかった無念なことなどを再び聞かせ、わだかまりを水に流して去っていくのですから、寝た後は、本当にすっきりするわけです。実は私たちが日ごろ抱く感情も、出所は二箇所です。ひとつは幽界、もうひとつは神界からです。見分け方はまったく簡単で、幽界から訪れる感情は悲しさや、恐れや、皮肉やひがみなど、マイナーな感情。神界からやってくる感情は、喜びです。喜びは記憶とはことなりますので、中今に直結します。喜びこそが真の感情であり、実体そのものです。悲しみや恐怖はどんなに迫力あるように思えても、実体のない本来ない感情なのです。それは私たちが作り上げた幽界から訪れます。私たちが信じても良い感情は喜び以外ないのです。なぜなら、この世は喜びが実体だからです。喜びは幾層の段階に分かれますが、低い段階に戻ることはありません。人をいじめて喜ぶ人が、人に勇気を与えて喜ぶことを知ってしまったら、もういじめて喜ぶことはできなくなってしまうのです。ですから、喜びは歓喜を生み、歓喜は大歓喜を生み、大歓喜はだいだい歓喜を生んでいき、再現がない構造をしています。その証拠に、悲しみは、大悲しみを生み、さらにだいだい悲しみを生むことは多いですが、必ずどこかでストップします。きわめて単純で、実は奥が浅い面があるのです。本来なかったものだからです。