道とエネルギー

人生や生き方にも出口があると思います。勝つとか負けるという出口。損得だけで終始人生を生きる人もいるでしょうし、享楽の追求で人生を生きる人もいます。その他、趣味の追求や信仰をよりどころに生きる人もいるでしょう。

人さまざまで、何が良いとか悪いとかは言えませんが、人の生き方をエネルギーから捉えたとき、古くから言われる「道」の存在が見えてきます。

エネルギーはすべてを生かす力であり、すべてを生み出す根源です。真実を追求する際、エネルギーを無視しては語れませんし、唯一の真実がエネルギーの法則です。それは物理的真実であると同時に心理的真実であり、意識であり霊界も幽界も現界も含むあらゆるものに共通します。

人間も霊人もお化けも神様も、すべてがエネルギーによって存在しています。

形や世界は異なるものの、共通の原理の前であらゆるものは存在しています。その存在のあり様には、主に二つの方向があります。ひとつは荒ぶる表現として存在するもの、、、もうひとつは発酵した無をよりどころにして存在するもの。

それは人間界であれ幽界であれ神霊界であれ、同じなのです。荒ぶる、むさぼるものは、どの世界の存在であれ、必ず消えていきます。荒ぶること自体に、むさぼること自体に力はなく、崩壊に進みます。

一方の発酵と無をよりどころにする存在は、反対物を受け入れることで無を作り、そこからエネルギーをもたらします。無からしかエネルギーは来ないためです。発酵をむねとする意識は相手が悪であろうがむさぼりであろうが、反対物や意識が存在するだけでうれしいのです。とくに著しい反対物がない場合は、無と直接かかわりあって自身の存在との一体化による発酵を目指します。これが「道」です。

無と関わり合うということは、発した声は消えていく、、、消していく無を意識しつつ声を出せば、それはエネルギーワークとなり、道となります。

柔道や剣道や合気道もおそらく相手の力と一体となって和すことで、次元を超えた境地に至ることを目的としているのだと思います。やはり道です。

道端のむくげは馬に喰われけり、、、という確か芭蕉の歌があります。道端の花を馬が食った、、、ただそれだけのことだと思っていましたが、無意識の中ではずっと気になっていました。

そしてある時、突然、馬に喰われたむくげの花が、そこに今はない道端の空間に見えた芭蕉。の思いが伝わってきました。ここにも道があると思います。

トンチのようになってしまいましたが、では道とは何かです。無の世界との連携プレイが道なのです。

出したものの、存在しているもの、発生したもの、あらゆるものすべては消えていきます。また、消えていく無の世界から訪れるエネルギーによる間は存在し続けていきます。

私たちの人生も無からエネルギーを受けている間は生きられます。無のエネルギーによって生かされている私たち。

あらゆる存在、存在足らしめている力、そのすべてがエネルギーです。私たちのあらゆる行為にも大元で関わるのは、このエネルギー以外にはありません。

有限に頼み、有限のみを見、有限のみしかないと思っている人は、道を作れません。道を歩むこともできません。

有限に作用する際に、常に無を意識することができれば、道としての人生がスタートできます。

昔の日本人は大変体が丈夫だったといいます。現代人の想像をはるかに超えるレベルでのそれは丈夫さだったようです。幕末に日本に来たドイツ人は、たった一人でほとんど休まずに箱根まで楽々と行ってしまう人力車の車夫の体力に驚いたといいます。

太平洋戦争で敗戦した日本でしたが、戦勝国のアメリカは今後日本が二度と欧米に立ち向かわないようにと、色々研究したといいます。その中でも、驚異に感じていたのが、日本人の体力と飛びぬけた丈夫さだったといいます。

今の私たちは残念ながら、世界の人の脅威になるほどの体力などありませんし、わずかに優れているのは、他の国の人達よりも多少長生きする程度のことぐらいです。と言っても、欧米に比べて寝た切り老人の数は比較にならないほど多い日本の現状。

それに比べて、幕末、明治、昭和の敗戦までの日本人の体力とその丈夫さは、異様なレベルにあったことは間違いなかったのです。欧米の食生活が日本人には無理があったと言われますが、原因はそれだけではありません。

道が無くなりつつあるためです。道は無と共に歩む姿勢ですので、エネルギーの宝庫となる生き方なのです。道を追求すればいやでも丈夫で長生きするケースが多くなるのが自然です。無からしかエネルギーは来ませんので、道の追求=健康で丈夫で長生きとなるわけです。

寿命は戦後の方が飛躍的に伸びているので何とも言えませんが、赤ちゃんの死亡率や衛生問題などを考えたら、戦前と戦後の日本人の寿命の変化も喜んでばかりもいられないと思います。まして健康で丈夫、、となれば、これはあきらかに戦前に軍配が上がります。

昔の日本にはかろうじて道が残されていました。日頃の立ち振る舞いにおいて、静けさ、こじんまりした境界感、四季を愛でる態度と習慣、不要に声を出さない、食べ方の繊細さ、けじめ、執着しない態度、、、、まだまだ色々あると思います。

日々の生活の仕方にうるさい、とも言えますが、無と一体となった姿勢を生活の態度の中に求めたことが、日本人の長い歴史の中にあります。無駄のない美しい立ち振る舞いで、日々を暮らすことができれば、そこには、無数のエネルギーワークが存在します。

お茶を入れる、出す、そのしぐさの一つ一つが無と一体となるセンスは、エネルギーワークなのです。何も茶道のことを言っているのではなく、日々の家庭でのお茶入れの際、思いを入れてお茶を入れる、、、心を込めてお茶を出す、静かに茶碗を置く、、、それだけで、お茶を受けた人もいれた人も満たされるのです。

無と一体となったもてなしだからであり、お茶を何グラム入れるとおいしいか、、、お湯の熱さは何度か、、、という現実的でケミカルな世界とは異なる幸福があるのです。

黒板に先生がチョークで昔は書きましたが、先生が一心に無心で黒板に書くチョークの音は、教室に響き、幸福感やエネルギーを子供たちに与えたのです。先生のご機嫌が悪く、無と一体となれない日の先生のチョークの音は、子供の心に痛い感じで突き刺さったはずです。私たちは、常に、本当はそうしたエネルギーによって生かされもし、元気を奪われもしていたのです。

日本人の脳の構造は左脳で母音を聞き取りますので、虫の音や風の音、自然界の音を声のメッセージとして聞くようになります。その結果、繊細で自然に沿ったきめ細かな文化が生まれたのですが、それは同時に無に通じる高度なエネルギーワークとしての道を生んだと言えるでしょう。

ならば私たちの生きる意味も、日々の立ち振る舞いや存在のありように、無と一体となったものがあるかどうか、、、「道」の存在は省いてはおけないものになると思います。

人にはそれぞれの道があると思うのです。エネルギーがすべてなら、エネルギーとの関わりを解く道の存在なくして、私たちの人生は考えることはできません。

あなたが出した声はそれを止めようとする無と一体化する道があります。
あなたが食べる食事には、その食べ方において無と一体化する道があります。

あなたがご主人に出すお茶のいっぱいには、ご主人を不快にも幸福にもさせる力があります。あなたが子どもに声をかけるその声は、自我なのか、無と一体となる響きなのか、、、それを子供のセンサーは見抜きます。

いま、日本人が成さねばならないものに、道の復活があるように思うのです。それは私たち日本人以外ではできにくいものであり、その責任が日本人にはあると思います。人種問題で捉えないでください。特殊性とその責任の観点から言っているのです。欧米は産業革命で世界の役にたってくれたので、これだけの科学的発展を世界は得ることができました。

それは本当に素晴らしいことです。そして、今はそれだけではもう世界は幸福になれないことがわかってきました。次は道を知る人の存在、その働きがやがて必要になってくることは確かだと思うのです。優劣の問題ではないのです。役割の問題として、欧米には欧米の、アジアにはアジアの、日本には日本の、役割があると思うのです。共通するものについては、すでにほぼ共通項は満たされていますので、あとはそれぞれの特殊性をもって、世界に貢献しなければならない地点に来ていると思います。

日本には、無のエネルギーである「道」の存在が昔からあり、フリーエネルギー時代が到来したなら、「道」が復活することは間違いありません。「道」こそがフリーエネルギーそのものだからです。
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