本当は知っている
意識が自分か肉体が自分か、、、意識が自分であるとわかることが悟りですと、飯島先生から伺った。先生は常々、自分は意識であると認識するようにし、その時間が多くなることが大切と語ってくれました。
人は表面的なものをつい本物と勘違いしてしまうので、自分が意識であるとの気づきは日常からは遠ざかりやすくなります。
自分が意識である、、、と気づくことの重要性は何かというと、すべての現実は意識によって作られるからであり、意識が無くなれば気絶で自分は動くことすらできなくなります。すべては、意識が作っています。
無からしかエネルギーは来ない、、、というのと、意識からしかエネルギーは来ないは、同じ意味です。意識は物量のない、測定できないが実在する働きです。
さて、このすべてである意識ですが、これには、実は名前もないし、自分の意識の持ち主は自分ではありません。自分のことすら、ただ見ている存在。
自分がどんなになろうが、動揺することなく、ただじっと見つめている存在としての意識。そこには、名前がないのです。自分のもののように見えて、自分のものではない存在。自分に縛られない存在としての意識。
以前のブログでも話したことがあると思いますが、もし、自分が今、死んだら、私の意識と思っている存在は、自分が死んだのを見ている、、、最初は、あれ、私が死んでる、、、と見ている。しかし、私は死んでない。今、こうして見ている、、、というわけです。
本当は生きているときも同じなのです。凄いアスリートになると、神業としか思えないような体の動きをします。鉄棒など?ミリでも狂ったら、落下してしまう危険な技です。
肉体を鍛錬すれば、それができる場合があるわけですが、果たして、肉体が慣れてそうなっているのでしょうか。違うのです。意識の表現として肉体を動かしているのです。肉体を同じように鍛えても、それができる人とできない人がいるのは、意識の違いです。
なぜなら、意識が現実を創造するためです。私たちは意識の表現として具現しているに過ぎません。なので、本体は常に意識なのです。そしてその意識には、私は無いのです。
無いというよりも、意識には名前も住所も性別も年齢も関係ない、そうしたものに支配されない目がただ素直に見ているだけ。それを私が持っているということだけです。
しかし、私たちは自身の意識を自分のものだと勘違いしているのです。本当は名前も住所も年齢も年代も国も場所も関係ないのが意識であり、その意識は人にも動物にも、おそらく物にも共通してあるものなのです。
私たちは死んだら肉体がなくなるので、自分の意識という誤解をせずに共通するひとつの意識の世界に戻れるのだと思います。意識がすべてを作るのですから、作られた物には、本当は何の意味もありません。すべては一つの意識の世界に戻るということは、創造のすべて、喜びのすべてと言っても良い世界で、そこでは主語はなくなります。主語がなければ、物もなくなります。物質は肉体も含め、ほとんどが主語だからです。
本当はこの世においても、本質は同じですから、主語はないのです。永遠の表現には、主語はありません。主語があるときに永遠はないからです。わかりにくくなるので、簡単に言いますと、この世でもうまく行き、楽しく、良いことが起こりやすい、、、そんな創造的な状況は、主語から離れた際に表現されるものだということです。
さらに具体的に言えば、私という主語で考えるよりも、私たちという主語で考える方が良いし、うまく行くし、本質的になります。さらに、もっと大きな主語を習慣にしていけば、この世で永遠性を表現できるようになりますので、幸福度はさらにアップするはずです。
満員電車はいやなものです。ついお隣の人が押してくると不快になります。こんな時でも主語を広げて、私たちの電車、凄い混雑ぶりでお互い様でいやなもんですね、、、と、常に私たちで捉えるようにするのです。それだけで、生きる世界が変わってきます。
不幸とは、自他をわけることにあります。なぜなら、意識は共通だからです。共有の唯一の世界が意識なのですから、自他をわければ分けるほど、本当の世界から離れていき、その分、幻想と幻影とまやかしの世界が広がるだけです。
意識が先です。肉体も意識からエネルギーを得て動いているのです。体が億劫な時でも、自分は意識であると思うと、体の億劫さはかなり軽減されます。年齢が行くほど体がつらくなるのは、自分が肉体であるとの意識が増大していくためです。
アスリートの体は意識に沿って動くからあれだけ動けるのです。身体が動いているのではありません。意識の表現として体が動いているのです。意識の動きがなければ、絶対にアスリートのような動きはできません。さらに言えば、アスリートを持ちだすまでもなく、本当は一歩すら動けないのです。
もちろん、病気やケガなどで体を壊し、以降、体が動けなくなるようなケースももちろんあります。そういう人に対して、意識で動けるとはもちろん言うことはできません。
意識と体の関係はそういう水掛け論ではなく、どんな体であっても意識が先でなければ動けないという点です。身体に問題があるという話しとは別なのです。犬や猫が交通事故などにあって、脚などを引きづりながらその後を生きる姿を見ることがあります。確かに動きづらそうにはしていますが、そうした犬や猫でも、一生懸命に動き、動き自体に制限はあるものの、なんら自分の不幸を嘆いているようには見えません。
パラリンピックのすばらしさも、形ではなく、人間の鍛錬の可能性のすばらしさと、意識が動き、それが表現されている美しさにあると思います。健常者以上の美や可能性すら感じさせることがあるのは、選手の意識が素直に見えるためもあると思います。なので心を打つのです。
私たちはどうしても肉体にしばられてはいますが、意識は自由に動き回れます。肉体の制限はあってもその永遠性を表現するところに素晴らしさがあり、スポーツも芸術も日常生活も同様です。意識が先にくる表現には、必ず、美しさと感動や永遠性があります。
深い永遠性の表現を体験すると、私たちは、もう貧乏でも病気でも不幸でも、どうだってかまわない、、、というところまで行き着けます。意識にシフトしているために、自身の中に永遠性が出てくるのです。それは共有であり、安心であり、運命に身を任せる気持ちとなります。
それはエネルギー源を知ったことと同じですから、もう戻ることはありません。その人はどんなに貧乏になっても、不幸になっても、それは単なる貧乏、単なる不幸でしかなく、それ以上ではないのです。なので、不幸と思いつつ、貧乏と思いつつ、幸福なのです。
住まいが、ありかが、自分の居場所が本当はどこにあるかを知っているからです。
今も昔もこれからも、常に見つめているだけの存在があります。それが自分です。その自分には名前もなく、悲しみもなく、怒りもなく、ただ喜びの通り道ではあるのです。喜び以外に本質はないからです。意識はエネルギーであり喜びです。すべての力はそこから来ます。
自分を忘れて眠る、、、自分を忘れて物事に取り組む、、、自分を忘れて、、、の時間が多いほど、活力に満ち、明るくなり、楽しくなります。
自分の損得、、、自分の健康、、自分のお金、、、自分の睡眠、、自分のご飯、、、それはそれでよくわかりますが、原理として、そうした自分の時間が多いほど、疲れ、うまくいかず、不幸になります。
仕方ないことなのです。自分は幻想であり、この世も幻想であり、意識だけが本物の実在だとしたら、そこからしかエネルギーは来ず、あらゆる幻想の物を生かし、永続させる力が意識であるとしたら、それは仕方ないことなのです。
そして意識は共通のところから、唯一のところから出ており、すべてはそれが生んでくれたものであり、どこにも、どの物にも、どの人にも、ある、あるものはそれだけという単純さ。複雑にしているのは、分けるからそう見えているだけであり、みんな同じ喜びなんだ、、、
ただ、それを知らずに悲しいと言っているにすぎず、それを知らずに何かを恨むと言っているにすぎず、、、それを知らずに負けまいとしているに過ぎず、、、
意識が自分、それは共有、、、それを知って生きれば、すべては遊び、、、あとはご勝手に、の楽しい世界が広がるはずなのです。
はずというのは、私だって何も知らないからです。でもきっとそうなんだと思います。
学ばなくても、調べなくても、わかるようになっているものはあるのです。どこかでみんなわかっているから、不幸だとか、貧乏だとか、悔しいとか言って、本当は遊んでいるのだと思います。ただ、そろそろ、違った遊びに変えた方が良いのではないかと、そんな風にもどこかで感じ取っている気がします。飽きてきたから。
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