祈りは作用

祈りは作用 

先日のブログで、法則や真理はひとつで、それが作用と反作用であると語りました。

作用と反作用は物理的な世界においてはもちろん、精神世界はじめ、霊的世界にも至る、共通の唯一の法則であり、宇宙にどんな宇宙人がいたとしても、どんな世界で生きている動植物であっても、この作用と反作用の法則の元に存在しています。

地中深い世界であれ、海底深い世界であれ、地上であれ、上空であれ、宇宙空間であれ、木星の上でも、太陽の上でも、スピカでも、そこがペテルギウスの上でも、変わることのない唯一の法則なのです。

この世において、いえ、あの世においても、現象が勝手に起こることはないのです。あらゆる現象には、それを生じさせたところの作用があるのです。作用と反作用、これが唯一の法則です。

そのうち、物理的な作用は目に見えますが、物理的な面が小さければ小さいほど、潜在的な作用となり、もたらす反作用の力は大きくなるのです。

しかし、私たちは目に見える世界の存在を大きく感じるため、物理的で巨大で力ある作用が大きいと勘違いするのです。

10キロの力をどこかに加えれば、10キロの力で押し返します。10キロの力を加えるのが作用であり、10キロの力を押し返すのが反作用です。そして10キロが拮抗している地点ではエネルギーが発生しています。

人間も体重をささえてくれる反作用によってエネルギーを得ているわけです。歩けば各関節で重力が拮抗し、ギャップがたくさん作れます。ですから、歩くから疲れるというのは嘘で歩かないから疲れるのです。エネルギーを得る作用が少ないためです。

このように重力による作用はわかりやすいのですが、さらに風による作用があり、水流による作用があり、磁力による作用があり、光による作用があり、音による作用があります。重力、風、水、音、磁力、光、どれを使っても作用を起こすことができます。作用が起きれば、必ず反作用が出てきます。

火を使ったギャップづくりで私はローソクストーブを作りましたが、たった2つか3つの小さなローソクで、30坪程度の家一軒を快適でエネルギーが満ちた空間に変えることができます。

物理的な現象面が小さいほど、潜在的な作用となりますので、重力によるギャップよりも風によるギャップの方が、さらに光によるギャップの方が、さらに音によるギャップの方が、潜在的に大きな作用であり、大きな反作用を起こす力があります。

重力の作用を使っての癒しには、肩をもんだり、叩いたりすることがありますが、その場合でも軽くたたいた方が肌は無理ない反作用が可能となりますので、副作用のないエネルギーが補給されることになります。

強く押したり、強く叩くような作用だと、肌や人体は反作用が自然にできず、体を硬化させて守るしかなくなります。強いマッサージに慣れた人の体が硬いのはそのためです。

静かに押したり、揺らしたりしていれば、副作用を伴うことなくエネルギーが得られるのです。

作用自体の質も問われます。強いマッサージよりも弱い刺激が上ですし、さらには、重力による作用よりも光による作用を肌に送れば、よりエネルギー補給が可能となります。

私が開発した懐中電灯による光エネルギーの得方がそれです。光教則本でこうした原理について語っています。さらに音による作用は高度です。チューナーは1秒間に528回の振動作用をもたらすもので、極めて高度なのです。その振動を止めようと反作用が開始します。

そしてついに物質的な作用を超えた意識の作用があります。物質的な作用も元には意識があるのですが、物を通さない意識作用の大きさについて語りたいと思います。

古くから私たちが行っている意識による作用のひとつに祈りがあります。

祈りは、意識そのものです。意識の作用は高度な反作用の世界からの反応をもたらしますので、物理的なものよりもずっと大きな反作用が与えられます。

ただし、意識の質が問われることも事実です。その意識がどこのどういうところに向いて発せられたのかによって、帰ってくる反作用が違うのです。

悪いことを考えれば悪いことが起こり、良いことを考えれば良いことが起こる、とよく言われますが、構造としては確かにその通りだと思います。

しかし、この考えの限界は、すでに良いものを自身の意識が決めている点です。この世的なのです。物の安定や物の増加や物の永続を願う構造が先に価値観としてあるのです。
良いことを考えれば、、、の次に来るのは、大体はこの世的な願望です。その意識は自分は物であるとの大元の意識を増長させますので、祈りとは違うのです。物質的な願いの世界です。

もちろんそれが悪いのではありません。ただ構造がそうであるということです。願いはその動機に沿った反作用が与えられるのです。なので、必ずしも幸運が訪れるかどうかはわかりません。

では、祈りとは何でしょう。作用としての祈りは、自分を超えたところにあります。それは私たちであり、この世であり、この世界であり、この宇宙であり、真理であり、、、要するに一体の世界へ向けられたものが祈りです。

祈りの基礎には、すべてはひとつです、、、の絶対信仰のような姿勢があるのです。少なくとも、祈りの守護は私ではないのです。私たち、、、もしくは誰かであったり、自分のこととは違うのです。

この作用は偉大です。自分を忘れ、自分は他と一体であるとの中から出る祈り、、、このもたらす反作用は大きいのです。

現在の地球も人間も悲惨な状態にあるのは、この視点からの、この姿勢からの、この意識からの祈りが不足しているからなのです。願いは無数にありますが、祈りが足りないのです。祈りの作用が足りないので、地球はエネルギー不足に陥ってしまっているのです。

私たちが未熟でなかなか成長しないことが、現代の大きな問題の根底にあります。それも祈りの視点から見れば、わかりやすいことです。なぜ、私たちは成長できないのでしょう。いつも自分のことで苦しみ、不安がり、うまく行かないと思って、自分のことばかりで悩むのでしょう。

人は何か大きな存在に依存できている時、安心感が訪れるようになっています。最初は両親への依存です。これはとても自然なことです。依存を悪く言う人がいますが、依存自体は自然なものです。しかし、依存してはならない状況や、依存だけでは成長しきれない面が成長とともに出てきます。

私たちがあるものからの依存から抜けるには、さらに大きなものへの依存が必要です。

これが、本当の意味での親離れとなります。具体的に言いましょう。

自分のことばかりを悩んだり悔やんでいて、幸福でない状況にいる人は、依存できるものがないためです。依存してはならない状況の中でも、今なを依存対象を求め、母や父に文句を言っている状況と似ています。

具体的な依存という場合もあれば、心理的な依存もあります。

私たちが幸福になるためには、この依存の心理を克服することがどうしても欠かせません。
それが祈りになのです。

誰でも子供時代は自分のことしか考えません。しかし、ある程度成長していく中で、自分にも心理的な力量がでてくるのが実は自然です。

その際に、親が大変であったり、親が心配であったりして、切なる思いで、親のために祈ることを体験した人は、依存という大きな問題をクリアしているのです。

いくつになっても、親への不満と自身の不幸にさいなまされているひとは、本当の意味で、親のために祈ったことが一度もなかったのです。ただ自身の不満が関心事だったのです。

親のために祈れなければ、その後の出会いでも同様のはずですので、この構図は長引きます。親に限らず、何か自分自身以外のために、切に祈るという経験をしたことない人は今なを不幸なのです。

祈りという小さな作用がもたらす反作用のエネルギーは大きいのです。自身を忘れて相手を思うことは、命の一体との作用となるので、とても大きいのです。

反作用の大きなエネルギーによって、私たちは本当に成長し、悩むことがあってもそれに負けない人として育っていくようになっています。

自分と他が一体であるとの視点から出た作用のみが、この世を楽園に変えてくれるのです。

そのことが自然ということなのです。不自然に生きれば、つらく苦しくなります。自他をことさら分ける生き方や意識が不自然なのです。

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